コンテンツにスキップ

今裕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
今裕

今 裕(こん ゆたか、1878年(明治11年)2月7日 - 1954年(昭和29年)2月5日)は、日本医学者医学博士。専門は病理学細菌学

来歴

[編集]

青森県弘前出身。津軽藩侍医・今幹斎の五男[1]1896年明治29年)青森県第一尋常中学校卒。1900年(明治33年)第二高等学校医学部卒。京都帝國大学医学部助手台湾総督府医学校助教授1909年(明治42年)東京慈恵会医学専門学校教授東京歯科医学専門学校教授兼任。1918年(大正7年)北海道帝國大学農学部教授。1919年(大正8年)同医学部教授。1925年(大正14年)同医学部長。1937年(昭和12年)北海道帝國大学総長1941年昭和16年)北海道帝國大学停年退官。1941年任期満了したが、11月8日、学園新体制による全学推薦答申の方法により再び留任となり、総長に再選された[2][3]1945年(昭和20年)11月30日に総長を依願免本官となり退官[4]。1946年(昭和21年)3月19日に名誉教授の称号を授けられた[5]1949年(昭和24年)学校法人札幌学院大学初代理事長・同理事札幌文科期成会会長。1951年(昭和26年)6月4日、青森県立中央病院に初代院長として着任した[6]

1934年(昭和9年)学士院賞を授与された。「細胞の銀反応の研究」[7][8]

京都帝大時代は片山病(日本住血吸虫症)、台湾では各種感染症、北海道帝大ではアレルギーの研究に貢献した[9][10]

エピソード

[編集]
  • 北海道に医学部が無い事を憂い、北大医学部創設に尽力した。1923年(大正12年)には北海道帝国大の大学生監も務める。総長時代には欧米に三度留学する[11]
  • 常連だった『竹家和食店』が王文彩を料理長とする中国料理店に路線変更する際、新しい店名『竹家』を提案した。

家族

[編集]

主著

[編集]
  • 『病理組織写真図譜』1910年(南山堂書店)
  • 『近世病理學總論』1910年(南山堂書店)
  • 『近世病理解剖學』1913年(南山堂書店)
  • 訳書『ヒポクラテス全集』1931年(岩波書店
  • 武田勝男との共著『内分泌腺の銀反應と組織化學』1938年(南山堂書店)

脚注

[編集]
  1. ^ a b 『新聞記事に見る青森県日記百年史』東奥日報社, 1978年、 213ページ
  2. ^ 北海道大学『北海道大学創基八十年史』北海道大学、1965年、174頁。 
  3. ^ “医界月誌”. 日本医師会雑誌 17 (9): P.36. (1941年12月). 
  4. ^ 『官報』第5670号、昭和20年12月5日。
  5. ^ 北海道大学『北海道大学創基八十年史』北海道大学、1965年、378頁。 
  6. ^ 宮崎道生 編『青森県近代史年表』青森県、1973年、389頁。 
  7. ^ 恩賜賞・日本学士院賞・日本学士院エジンバラ公賞授賞一覧”. 日本学士院. 2024年1月4日閲覧。
  8. ^ 札幌市史編集委員会 編『札幌市史 別巻 (札幌市史概説年表)』札幌市、1955年、345頁。 
  9. ^ 堀川豊永 編『近代日本の科学者 第2巻』人文閣、1942年、26-31頁。 
  10. ^ 泉[2012:267]
  11. ^ 泉[2012:267]によると、台湾時代にドイツに1度、慈恵医専時代に英国、米国に1度である。
  12. ^ 今裕『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  13. ^ 鈴木宗言『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]

参考文献

[編集]
  • 『北海道人物・人材情報リスト2004 か-と』日外アソシエーツ編集・発行、2003年。
  • 泉孝英『日本近現代 医学人名事典 1868-2011』医学書院、2012年。
先代
-
学校法人札幌学院大学理事長
初代: 1949年 - 1951年
次代
道家齊次