今裕
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今 裕(こん ゆたか、1878年(明治11年)2月7日 - 1954年(昭和29年)2月5日)は、日本の医学者。医学博士。専門は病理学・細菌学。
来歴
[編集]青森県弘前出身。津軽藩侍医・今幹斎の五男[1]。1896年(明治29年)青森県第一尋常中学校卒。1900年(明治33年)第二高等学校医学部卒。京都帝國大学医学部助手、台湾総督府医学校助教授、1909年(明治42年)東京慈恵会医学専門学校教授。東京歯科医学専門学校教授兼任。1918年(大正7年)北海道帝國大学農学部教授。1919年(大正8年)同医学部教授。1925年(大正14年)同医学部長。1937年(昭和12年)北海道帝國大学総長。1941年(昭和16年)北海道帝國大学停年退官。1941年任期満了したが、11月8日、学園新体制による全学推薦答申の方法により再び留任となり、総長に再選された[2][3]。1945年(昭和20年)11月30日に総長を依願免本官となり退官[4]。1946年(昭和21年)3月19日に名誉教授の称号を授けられた[5]。1949年(昭和24年)学校法人札幌学院大学初代理事長・同理事・札幌文科期成会会長。1951年(昭和26年)6月4日、青森県立中央病院に初代院長として着任した[6]。
1934年(昭和9年)学士院賞を授与された。「細胞の銀反応の研究」[7][8]。
京都帝大時代は片山病(日本住血吸虫症)、台湾では各種感染症、北海道帝大ではアレルギーの研究に貢献した[9][10]。
エピソード
[編集]- 北海道に医学部が無い事を憂い、北大医学部創設に尽力した。1923年(大正12年)には北海道帝国大の大学生監も務める。総長時代には欧米に三度留学する[11]。
- 常連だった『竹家和食店』が王文彩を料理長とする中国料理店に路線変更する際、新しい店名『竹家』を提案した。
家族
[編集]- 父・今幹斎(敬一、1833-1892) ‐ 津軽藩医[12]
- 兄・今成男 ‐ 医師[1]
- 妻・長女 ‐ 司法官僚・鈴木宗言の長女。叔父に中村是公[13]。
- 娘婿・荒勝曄 ‐ 荒勝文策二男
- 甥・今和次郎 ‐ 成男の子
- 甥・今純三 ‐ 成男の子
主著
[編集]- 『病理組織写真図譜』1910年(南山堂書店)
- 『近世病理學總論』1910年(南山堂書店)
- 『近世病理解剖學』1913年(南山堂書店)
- 訳書『ヒポクラテス全集』1931年(岩波書店)
- 武田勝男との共著『内分泌腺の銀反應と組織化學』1938年(南山堂書店)
脚注
[編集]- ^ a b 『新聞記事に見る青森県日記百年史』東奥日報社, 1978年、 213ページ
- ^ 北海道大学『北海道大学創基八十年史』北海道大学、1965年、174頁。
- ^ “医界月誌”. 日本医師会雑誌 17 (9): P.36. (1941年12月).
- ^ 『官報』第5670号、昭和20年12月5日。
- ^ 北海道大学『北海道大学創基八十年史』北海道大学、1965年、378頁。
- ^ 宮崎道生 編『青森県近代史年表』青森県、1973年、389頁。
- ^ “恩賜賞・日本学士院賞・日本学士院エジンバラ公賞授賞一覧”. 日本学士院. 2024年1月4日閲覧。
- ^ 札幌市史編集委員会 編『札幌市史 別巻 (札幌市史概説年表)』札幌市、1955年、345頁。
- ^ 堀川豊永 編『近代日本の科学者 第2巻』人文閣、1942年、26-31頁。
- ^ 泉[2012:267]
- ^ 泉[2012:267]によると、台湾時代にドイツに1度、慈恵医専時代に英国、米国に1度である。
- ^ 今裕『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
- ^ 鈴木宗言『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
参考文献
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