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伏見宮博恭王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伏見宮博恭王
伏見宮
1920年代撮影
続柄

身位
敬称 殿下
出生 1875年10月16日
日本の旗 日本東京府麹町区
死去 (1946-08-16) 1946年8月16日(70歳没)
日本の旗 日本東京都品川区上大崎、伏見宮邸
埋葬 1946年8月21日
豊島岡墓地
配偶者 徳川経子
子女 博義王
恭子女王
華頂宮博忠王
博信王
敦子女王
知子女王
博英王
父親 伏見宮貞愛親王
母親 河野千代子
栄典 大勲位菊花章頸飾
役職 大日本帝国海軍
元帥海軍大将軍令部総長
議定官
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伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう、1875年明治8年〉10月16日 - 1946年昭和21年〉8月16日)は、日本皇族海軍軍人

ドイツ帝国海軍兵学校・海軍大学校卒業(日本海兵18期相当)。栄典元帥海軍大将大勲位功一級伏見宮貞愛親王の第一王子(庶長子)。伏見宮第25代当主。議定官軍令部総長を務めた。初め名を愛賢王(なるかたおう)といい、華頂宮相続に当たり名を博恭王と改めた。日露戦争では連合艦隊旗艦三笠」分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う[注釈 1]艦長艦隊司令長官を務める等、皇族軍人の中では際立って実戦経験が豊富であった。

伏見軍令部総長宮殿下(ふしみぐんれいぶそうちょうのみやでんか)、伏見元帥宮殿下(ふしみげんすいのみやでんか)などとも呼ばれた。

生涯

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生い立ち

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貞愛親王とその女房の河野千代子との間に第一王子愛賢として生まれた。当時貞愛親王は満17歳であった。庶子であったことから、誕生当初は王の身位も与えられなかった。

公家社会の嫡庶の序を重んじる伝統に加え、一夫一妻制をとる西洋社会の影響から、伏見宮の継嗣の対象からは外された。邦家親王とその正妃親王妃景子との間に生まれた父の貞愛親王や伯父で先代伏見宮の貞教親王も、庶子であった数人の兄たちを飛ばして伏見宮家を継承している。当時の太政官布告によれば将来的に臣籍降下し華族に列せられる予定であった。

華頂宮の継承

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1876年(明治9年)に愛賢王の伯父にあたる華頂宮博経親王が26歳で薨去、博経親王の子博厚が皇族に列し、華頂宮家を継承した[注釈 2]

その博厚も1883年(明治16年)に8歳で薨去。明治天皇の特旨をもって華頂宮の存続を決定し、まず博厚王[2] を猶子・親王宣下により博厚親王とした上で、華頂宮自体の継承に関しては、本家に当たる伏見宮から王子を充当し宮家を立てることとし、行先の決まっていなかった愛賢王が華頂宮を継承、同時に名を博恭と改めた。

海軍軍人

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華頂宮を継承して3年後の1886年(明治19年)4月5日、博恭王は海軍兵学校予科に入学し(16期)、海軍軍人としてのスタートを切る。3年後に海軍兵学校を中退してドイツに渡り、キール海軍兵学校キール海軍大学校Marineakademie und -schule)で学び、1895年(明治28年)まで滞在した。この間、1891年(明治24年)4月にはキール軍港の軍艦進水式に親臨したウィルヘルム二世と対面した[3]。1893年(明治26年)3月30日には海軍少尉候補生を命じられ、1894年(明治27年)4月20日に海軍少尉に任官した[4]。ドイツ海軍大学校を卒業した後には貴族院議員(皇族議員)に任じられた。

博恭王は、日本の海軍兵学校は「期外」である[5]。しかし、海軍史家の野村実は「日本海軍は明らかに、博恭王を海兵十八期生として待遇していたわけである。」[6]と述べている。博恭王の進級は、海軍中尉進級から海軍大佐進級まで、兵18期クラスヘッドの加藤寛治と同時であった(海軍少将進級は、博恭王が大正2年8月、加藤が大正5年12月)[6][7][8]

日本への帰国後は巡洋艦戦艦での艦隊勤務を重ね、このため後述する様に皇族とはかけ離れた行動様式や生活が身につくことになる。 帰国後、海軍少尉として海防艦「厳島」、「松島」に乗船、明治30年海軍中尉として戦艦「富士」に乗船。その後、海軍大尉として装甲巡洋艦「浅間」、同「出雲」、戦艦「朝日」、明治39年には海軍少佐となり戦艦「三笠」に乗船した[9]

1897年(明治30年)1月9日、徳川慶喜の九女・経子と結婚した[10]

1903年(明治36年)に海軍少佐に任官される。 戦艦「三笠」の第三分隊長として後部砲塔の指揮に当たる。

1904年(明治37年)日露戦争が開戦すると同配属のまま、司令長官・東郷平八郎、艦長・伊地知彦次郎、砲術長・加藤寛治らとともに同じ船で出征した。日本海軍が博恭王を海上第一線の最重要部門に配置していたことは明らかである[11]

翌1904年(明治37年)、邦芳王廃嫡に伴い、華頂宮から急遽伏見宮に復籍して後嗣となり、また第二王子で僅か2歳の博忠王が華頂宮を継承することとなった[12][注釈 3]

伏見宮復籍後も艦隊勤務での実績を積み、日露戦争黄海海戦において、旗艦「三笠」の第三分隊長として後部の30センチ砲塔を指揮、その際負傷した。

復帰すると巡洋艦「新高」に乗船、横浜港の日露戦争凱旋観艦式明治天皇と対顔し、大勲位菊花大綬章を授与された[11]。 その後、海軍少佐として海防艦「沖島」、巡洋艦「浪速」に乗船した[11]

日露戦争で旅順が陥落し、満州の陸戦で日本が勝利を納めると大韓帝国皇帝の李太王義陽君を特使として新書を寄せて日本の戦勝を祝した。明治天皇はその答礼使として博恭王を選び大韓帝国に派遣した[13]

1906年(明治39年)には海軍中佐となりイギリスの日本大使館駐在武官として勤務した[14]

明治39年に明治天皇が清国皇室に対し表敬した際にも博恭王が派遣され、博恭王は西太后光緒帝と対面した[15]

1908年(明治41年)5月にはイギリス、バッキンガム宮殿にてエドワード七世、皇太子時代のジョージ五世に対顔した[14]。同7月には特別に艦長の客分待遇にて戦艦「アガメンノン」に乗艦が許可され、イギリス海軍の北海演習を視察した[16]。この時、旗艦「ドレッドノート」にて司令長官ブリッジマン中将とも交流した。またこの他にイギリス駐在時代にはイギリス海軍のブリッジ大将、ダグラス大将、シーモア大将との交流しアームストロング社ヴィッカース社を視察した[17]

1910年にエドワード七世が崩御すると大葬参列のために天皇の名代として訪英した伏見宮貞愛親王とともに5月25日に新国王のジョージ五世に対面した[18]

1913年(大正2年)8月31日に海軍少将に任官されると共に横須賀鎮守府艦隊司令官に就任。更に海軍大学校長第二艦隊司令長官などを歴任し、1923年(大正12年)に貞愛親王の薨去に伴い、伏見宮を継承した(第25代)。

1915年(大正5年)には当時16歳の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の北陸行啓に際して博恭王が司令官として指揮する「生駒」「鞍馬」に裕仁親王が乗艦して艦隊訓練を見学した。博恭王は常に裕仁親王の身近にあり、裕仁親王にとっては博恭王は明治天皇、大正天皇と同等かそれ以上に敬意を払うべき存在であったという[19]

1927年(昭和2年)、連合艦隊基本演習にて美保関事件が起き、「神通」艦長の水城圭次大佐が責任を感じ自刃すると、水城の自刃に深く感動した博恭王は水交社におもむき水城の霊に拝礼して遺族を感動させたという[20]

1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約には上司の東郷平八郎、同僚の加藤寛治らとともに反対の立場をとるいわゆる艦隊派であったが、条約調印後に昭和天皇に拝謁した博恭王が海軍軍縮条約について話そうとしたところ、天皇が答えなかったことから天皇の意向を知った博恭王は以後、条約批准賛成に立場を変えた[21]

海軍の頂点に

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1931年(昭和6年)末、参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任したのに対し、海軍もバランスをとる必要性から、1932年(昭和7年)2月2日付で、博恭王が海軍軍令最高位である海軍軍令部長に就任した[22]。同年5月27日[注釈 4]付で、元帥府に列せられ元帥の称号を受ける[23]

1933年(昭和8年)10月、軍令海第5号軍令部令により海軍軍令部は冠の「海軍」が外れて「軍令部」となり、海軍軍令部長も「軍令部総長」となる。これは陸軍の「参謀本部」「参謀総長」と対応させたものであり、特に皇族である博恭王は「伏見軍令部総長宮(ふしみぐんれいぶそうちょうのみや)」と呼称される。また、北原白秋作詞、海軍軍楽隊作曲による国民歌「伏見軍令部總長宮を讃え奉る」も作られている(#外部リンクを参照)。

1934年(昭和9年)に海軍最長老の東郷平八郎が死去すると海軍でただひとりの元帥となった [24]

海軍軍令部長・軍令部総長時代は、軍令部が権限強化に動き出した時で、博恭王自身も(陸軍と違い、伝統的に海軍省優位であった海軍にあって)軍令部権限強化のための軍令部令及び省部互渉規定改正案について「私の在任中でなければできまい。ぜひともやれ」と高橋三吉嶋田繁太郎といった軍令部次長に指示して艦隊派寄りの政策を推進した。本来海軍では人事権がなかったはずの軍令部の博恭王だが、皇族あるいは海軍長老としての権威で大角海相に圧力をかけ、人事への介入を強め、艦隊派を残し条約推進派を海軍から罷免させていった[25]。さらに海軍軍令部の呼称を軍令部に、海軍軍令部長の呼称を軍令部総長に変更、ついには兵力量の決定権(編成権)を海軍省から軍令部に移して軍令部の権限を大幅に強化し、海軍省の機能を制度上・人事上弱体化させることに成功、軍令部は海軍省に対して対等以上の力を得ることとなった。

以上の一連の流れは元々、海軍内に軍令部を中心とした艦隊派海軍省を中心とした条約派の内部対立があり、艦隊派の軍令部が伏見宮博恭王を担ぎだし条約派にロンドン条約の意趣返しをしたという背景がある[26]

二・二六事件では事件発生の朝、加藤寛治真崎甚三郎と協議を行ってから参内している。この時、叛乱軍に同情的であった伏見宮は昭和天皇の怒りを買い、その後は叛乱鎮圧に向けて動いている[27]。ところが、2019年にNHKスペシャルにより発見された海軍軍令部の極秘資料によれば海軍は事件前から二・二六事件の予兆を把握しており、事件発生直後、参内した博恭王に昭和天皇は「海軍の青年士官の合流することなきや」と尋ねたところ、博恭王は海軍が反乱に加わることはない旨を明言し、さらに天皇から大海令を賜り事件鎮圧のために海軍トップとして天皇側の重要な戦力として事件の最初期から動いたことが明らかになった[28]。思惑のはずれた加藤寛治は「終日憂鬱」と日記に記している[29]。以後、海軍は鎮圧に向けて決起部隊を包囲する形で艦隊陸戦隊を展開している。

午後二時三十分に行われた皇族会議においても伏見宮博恭王は事前に高松宮久邇宮と打ち合わせをし、宮家、皇族の長老として会議をリードし反乱部隊の速かな鎮圧の方針を決し戒厳司令部に伝えるとともに、秩父宮と高松宮に天皇を補佐することを助言した。これに秩父宮と高松宮は頭を垂れて応えたという[30]

三国同盟には当初から反対しており、同じく反対派だった昭和天皇は三国同盟を阻止するために博恭王に相談をして、米内光政を総理大臣に推薦したという[31]米内光政内閣)。

また対米開戦に対してもこの当時は絶対反対を主張していたという[32]

対米開戦八か月前の1941年(昭和16年)4月9日に病気のため軍令部総長を辞任した。

軍政から辞した博恭王であったが、依然として海軍内に権力をもっており、太平洋戦争中においても、大臣総長クラスの人事には博恭王の諒解を得ることが不文律であった。

晩年

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1938年(昭和13年)10月、長男・博義王が急死。1939年(昭和14年)8月18日には経子妃と死別。さらに1943年(昭和18年)8月、四男・伏見博英伯爵が戦死。天皇を守る役目を負った宮家として、当然の役割を果たしたと、冷静に受け止めた[33]

1944年(昭和19年)6月25日、サイパン島の放棄を決定した天皇臨席の元帥会議において、「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。そしてこの対策は、急がなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言した[34]。この「特殊な兵器」は特攻兵器を意味するものであったとの説がある[35]。同年末頃に、脳出血を起こし、心臓の病を抱え、熱海別邸で療養生活を送る[36]

博恭王の四人の男子はすべて海軍兵学校に進み、第一王子・博義王、第二王子・博忠王は戦病死し、第四王子の博英王はセレベス島南部のボネ湾上空で撃墜され戦死した。第三王子の博信王のみが生き延びた。閑院宮載仁親王の第五王女・華子と結婚し、戦後はアメリカに渡ったという[37]

敗戦直後、病躯をおして上京。しばらくは、戦災で焼失した伏見宮邸近くの旅館「福田屋」で生活を送った[36]。さらに、目黒に所在した三条公爵家の邸宅を買い取って移住[36]。敗戦に前後し、重要な書類や日記は全て焼却処分したため、米軍に接収されていない[36]

1946年(昭和21年)8月16日午前9時38分、伏見宮邸にて薨去した[38]。薨去したその日に、昭和天皇が弔問に訪れた[39]

8月21日に、豊島岡墓地で葬儀が執り行われた[40]。伏見宮は嫡孫の博明王が継承した。

評価

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伏見宮博恭王の評価としては海軍トップの軍令部総長として君臨したその責任を問う声があることも事実である(後述)が、博恭王はお飾り的な皇族軍人ではなく、実戦・実務経験豊富な「潮気のある」一流の海軍軍人としての風格を持っていた。自ら率先して最前線に立ち、常に部下将兵を鼓舞し苦楽を共にするのを厭わない姿勢や、操艦の名手として関門海峡のような「船の難所」でも難無く艦を操るその実力は海軍内でも評価されていた[41]。皇族風を吹かせない人柄や、軍人としての実力・けじめを持ち合わせており、海軍軍人内では広く敬愛された人物だったという [42]

また、伏見宮を軍令部総長にした経緯は、陸軍内部の派閥争いが深刻なものになったため元老西園寺公望に相談の上で閑院宮に参謀総長に就いてもらった。その先例に倣って海軍も伏見宮に軍令部総長に就いてもらったと昭和天皇は述べており伏見宮本人に対する不満も述べてはいない(「昭和天皇独白録」)[43]

海軍の頂点として

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東郷平八郎とは『宮様と神様(殿下と神様)』と呼ばれ、海軍内で神格化されていた。博恭王は大艦巨砲主義者であったので、博恭王の威光を利用した艦隊派の台頭を招くことに繋がった。これについて井上成美は、皇族が総長に就くことで、意見の硬直化を招いたことを「明治の頭で昭和の戦争をした」と称して批判している。博恭王の総長退任時に及川古志郎海相に意見を求められた井上は、「もともと皇族の方はこういう重大事に総長になるようには育っておられない」「宮様が総長だと次長が総長のような権力を持つことになる」と手厳しく批判している。これらのことから、海軍内の条約派を追放し、日米開戦の元凶になった一因となったとして、戦後は批判的な評価を受けることが多い[44][45]。しかし、そもそも博恭王を軍令部長に担いだのは「艦隊派」であり、その運動の中心となったのは艦隊派のシンボル東郷平八郎とその腹心、小笠原長生であった[46][47]。 艦隊派の拠点である軍令部は博恭王を担ぐことにより条約派の海軍省に意趣返しをしたのであった[48]。しかし、昭和13年から翌年にかけて陸軍と海軍が日独伊三国同盟について対立すると、米内光政海軍大臣、山本五十六次官らは英米を無用に刺激すると猛反対したが、博恭王は米内らを一貫して支持する姿勢を堅持していた[31][49]。海軍関係者らからは、対米開戦についても博恭王は当初は絶対反対と主張していたという[50][49]。 開戦を主張するようになったのは9月6日の御前会議で10月下旬をめどとして対米英蘭戦争の準備を完了するとした「帝国国策遂行要領」決定以降のことである[51]。伏見宮は10月9日に参内して天皇に「米国と戦争しなければ陸軍に反乱が起きる」「人民は開戦を希望している」と語ったが天皇に「今はその時期ではない」と反論され博恭王は主張を取り消したということを木戸幸一は天皇から聞いたという[52]。この発言は9月6日の御前会議で対英米蘭戦争の準備を10月下旬には完了するとした「帝国国策遂行要領」の決定や10月5日に連合艦隊に作戦準備が命じられた以降のものであり、博恭王の発言は軍事的には暴論とは言えないと言われる[51]

開戦時の嶋田繁太郎海相が避戦派から開戦派に転向したのも伏見宮の働きかけによるとされる[53]。伏見宮は昭和16年(1941年)まで軍令部総長を務めていたが、総長にあと1年長く在任していれば、開戦責任を問われて戦犯とされていた可能性も高く、もしそうなっていれば開戦責任が皇族関係者に及ぶことになる可能性もあり得た[54]海軍反省会でも博恭王の戦争責任について問題提起されたが、皇族という存在の重さゆえか、議論は深まらなかった[55]。この点に関してはこの時期、東久邇宮が総理候補になっていたのを昭和天皇が皇室に開戦の責任を及ぼしかねないことを見越して却下したのと同じ背景で、「病気になられた機会に替わっていただいた」(「昭和天皇独白録」)[43]という事情と、海軍内部も同じく開戦責任を伏見宮に及ぼさないため辞めていただいたという事情だったという(「博恭殿下を偲び奉りて」南郷次郎海軍少将)[56]

反面、博恭王自身は日米戦について「日本から和平を求めても米国は応じることはないであろう。ならば早期に米国と開戦し、如何にして最小限の犠牲で米国に損害を与え、日本に有利な条件で早期和平を結ぶべきである」という『早期決戦・早期和平』の考えを持っていたとされ、実際にその様な内容を昭和天皇にも上奏を行っている[注釈 5]。艦隊派の重鎮であった博恭王とは反対の立場であった『欧米協調派』の山本五十六とは、日米戦について近い考えをしていたと考えられる[57]

一軍人としての人柄

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軍令部の権限強化を図るべく博恭王が主導した「軍令部令及び省部互渉規定改正案」に対し、井上成美は自らの軍務局第1課長の職を賭して激しく抵抗し、結果として更迭された。井上は横須賀鎮守府付となり、待命・予備役編入の危機にさらされた。しかし大佐昇進後5年目にして戦艦比叡艦長に補され、艦長の任期は通常1年のところを2年務めて少将に進級している[注釈 6]。井上が予備役編入されずに比叡艦長に栄転したのは、博恭王が敵であったはずの井上について「井上をよいポストにやってくれ」[58]と海軍人事当局に口添えしたためだという(井上本人が、当時の海軍省人事局第1課長であった清水光美から聴取した。なお異説もある[59]。)[58]

海軍での生活や習慣が身に付いていた博恭王には、皇族らしからぬ逸話が残っている。入浴後、皇族であれば湯かたびらを何枚も着替えて体の水分を取るのが普通であるが、博恭王は一般の庶民と同じように、使っていた手ぬぐいを固く絞り、パンパンと払い伸ばしてから体を拭いていたという。下着の洗濯などは自ら行うこともあり、周りの者から「いつその様なことを憶えられたのですか?」と聞かれると「海軍では当たり前である」と答えたといわれる。

嶋田繁太郎の日記によると、艦内では握り飯漬物という簡易な食事を好み、吉田俊雄「四人の軍令部総長」(文春文庫)によると、海軍省食堂での昼食時における博恭王の好物は天ぷらうどんだったという。また、軍令部総長の在任が長い事に掛けて、海軍部内では特徴的な長い顔から「長面君(ちょうめんくん)」と渾名を付けられていた。

ある時、部下が「殿下、殿下」と部屋のドアをノックすると、「すぐに出るから「出んか、出んか」と騒ぐな」というエピソードも残され、ユーモアあふれる人柄で、その容貌から「長面君」とあだ名され海軍軍人から広く敬愛された人物だったという[60]

博恭王の岳父徳川慶喜であったが、あるとき艦内で士官たちが幕末の議論をしていて誰かが徳川慶喜を激しく批判したことがあった。その際に博恭王は黙って席を立ったが、後にその士官が謝罪に来たときに、「いや気にすることはない、勉強になった」と声をかけたという。

また臣籍降下した四男伏見博英1943年に戦死した際、戦死者合同葬で博英の霊位を最上位に置こうとした海軍当局の動きを止め、あくまで海軍の階級順とさせた。

長老皇族として

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伏見宮家家長として、傍系の宮家にも気をかけた。久邇宮邦彦王が、その第一王子である久邇宮朝融王酒井菊子との婚約を私事により一方的に解消させた事件があった。これ以前に、邦彦王の第一王女である良子女王(香淳皇后)と皇太子裕仁親王(昭和天皇)との婚姻に関し、周囲の反対を押し切ってそれを成立させただけに(宮中某重大事件)、逆の立場に陥った久邇宮家への風当たりは強かった。

その中で博恭王は自身の娘知子女王を、朝融王の性質を言い含めた上で久邇宮家へ嫁がせ、皇室内の空気の引き締めに一役買ったと言える。しかしその直後、朝融王は妃を裏切る形で侍女を懐妊させ、博恭王は久邇宮父子の度重なる不貞に強く心を痛めたという[61]

経歴

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栄典

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家族

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※敦子女王と知子女王は双生児である。

系図

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伏見宮家系図

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伏見宮系図
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
93代天皇
後伏見天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北朝初代天皇
光厳天皇
 
北朝2代天皇
光明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北朝3代天皇
崇光天皇
 
北朝4代天皇
後光厳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
初代伏見宮
栄仁親王
 
北朝5代天皇
後円融天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2代伏見宮
治仁王
 
3代伏見宮
貞成親王
 
100代天皇
後小松天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
101代天皇
称光天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
102代天皇
後花園天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4代伏見宮
貞常親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5代伏見宮
邦高親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6代伏見宮
貞敦親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7代伏見宮
邦輔親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8代伏見宮
貞康親王
 
9代伏見宮
邦房親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10代伏見宮
貞清親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11代伏見宮
邦尚親王
 
13代伏見宮
貞致親王
 
12代伏見宮
邦道親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14代伏見宮
邦永親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
116代天皇
桃園天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15代伏見宮
貞建親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
118代天皇
後桃園天皇
 
17代伏見宮
貞行親王
 
16代伏見宮
邦忠親王
 
18代伏見宮
邦頼親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19代伏見宮
貞敬親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20/23代伏見宮
邦家親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
晃親王
山階宮家
 
朝彦親王
久邇宮家
 
21代伏見宮
貞教親王
 
彰仁親王
小松宮家
 
能久親王
北白川宮家
 
博経親王
華頂宮家
 
22/24代伏見宮
貞愛親王
 
載仁親王
閑院宮家
 
依仁親王
東伏見宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3代華頂宮
25代伏見宮
博恭王
 
邦芳王
 
昭徳王
 
禎子女王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
博義王
 
恭子女王
 
華頂宮
博忠王
 
博信王
〔華頂侯爵家〕
 
敦子女王
 
知子女王
 
博英王
〔伏見伯爵家〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光子女王
 
26代伏見宮
博明王
 
令子女王
 
章子女王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朗子
 
宣子
 
雅子
 

参考文献

[編集]
  • 井上成美伝記刊行会『井上成美』井上成美伝記刊行会、1982年。 
  • 野村實『山本五十六再考』中央公論社〈中公文庫〉、1996年。ISBN 4-12-202579-6 
  • 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。 
  • 伏見博明『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて』中央公論新社、2022年1月26日。ISBN 978-4120054952 
  • 寺崎英成『昭和天皇独白録』文藝春秋〈文春文庫〉、1995年7月10日。 
  • 浅見雅男『伏見宮』講談社、2012年12月25日。 
  • 野村實『天皇・伏見宮と日本海軍』文藝春秋、1988年2月10日。 

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 長く敵弾による負傷とされてきたが、実際は「三笠」後部主砲塔右砲の砲身内膅発が原因であった[1]
  2. ^ 当時の布告により旧来からの4つの世襲親王家を除く宮家においては一代限りの存続とし、その後の子供たちは臣籍降下して華族に列するとしていた(博厚は明治9年の布告までは皇族ですら無かった)が、これを不憫に思った有栖川宮熾仁親王ら周囲の人間の嘆願から、天皇特旨により華頂宮の継承が認められた格好となった。これを切っ掛けとして一代宮家とされた新設宮家たちの世襲も徐々に認められるようになる。
  3. ^ 伏見宮の家督を継承するはずであった邦芳王が「不治の病」となり、またその同母弟である昭徳王は、既に夭折していた。なお、博恭王の子である博義王恭子女王も同時に復籍している[12]
  4. ^ 同日は海軍記念日である。
  5. ^ 嶋田繁太郎の日記による[57]
  6. ^ 海軍における慣例として、大佐進級から少将進級には6年を要したが、6年目の大佐として主力艦(戦艦・正規航空母艦)の艦長を務めれば、1年後に少将へ進級することが確実であった。

出典

[編集]
  1. ^ 野村實『山本五十六再考』中公文庫P159 - 174。初版は1988年文藝春秋刊『天皇・伏見宮と日本海軍』
  2. ^ 『法令全書』明治十六年二月十五日 宮内省告示第一號
  3. ^ 野村實 1988, p. 36.
  4. ^ a b c 現役海軍士官名簿(昭和9年2月1日調)』(国立国会図書館デジタルコレクション)海軍省、1頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/19054682022年2月26日閲覧 
  5. ^ 秦 2005, pp. 269–288, 第1部 主要陸海軍人の履歴-期別索引
  6. ^ a b 野村 1996, p. 32
  7. ^ 秦 2005, p. 247, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-伏見宮博恭王
  8. ^ 秦 2005, p. 196, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-加藤寛治
  9. ^ 野村實 1988, p. 42‐43.
  10. ^ 明治30年宮内省告示第1号(『官報』号外、明治30年1月9日)(NDLJP:2947339/10
  11. ^ a b c 野村實 1988, p. 43.
  12. ^ a b 明治37年宮内省告示第5号(『官報』第6160号、明治37年1月16日)(NDLJP:2949471/3
  13. ^ 野村實 1988, p. 52.
  14. ^ a b 野村實 1988, p. 44.
  15. ^ 野村實 1988, p. 53.
  16. ^ 野村實 1988, p. 45.
  17. ^ 野村實 1988, p. 45‐46.
  18. ^ 野村實 1988, p. 46.
  19. ^ 野村實 1988, p. 55‐56.
  20. ^ 野村實 1988, p. 18‐19.
  21. ^ 野村實 1988, p. 23‐24.
  22. ^ 『官報』第1526号「叙任及辞令」、昭和7年2月3日(NDLJP:2957996/3
  23. ^ 『官報』第1621号「叙任及辞令」、昭和7年5月28日(NDLJP:2958092/5
  24. ^ 野村實 1988, p. 28‐29.
  25. ^ 「大角人事」再考”. 立教大学. 2023年11月18日閲覧。
  26. ^ 浅見雅男 2012, p. 302‐306.
  27. ^ 杉山 和男. “再び2・26事件について”. 一般財団法人 国際貿易投資研究所(ITI). 2023年11月26日閲覧。
  28. ^ 2019年8月15日(木) 午後7時30分~8時43分放送「NHKスペシャル「全貌 二・二六事件~最高機密文書で迫る~」https://www.nhk.or.jp/special/detail/20190815.html
  29. ^ (「加藤寛治日記」続・現代史資料5)
  30. ^ (児島襄『天皇』第三巻 文藝春秋、昭和49年11月30日 113‐115頁)
  31. ^ a b 寺崎英成 1995, p. 57‐58.
  32. ^ (「海軍戦争検討会議記録」)
  33. ^ 伏見博明 2022 p.45
  34. ^ 防衛庁防衛戦史室『戦史叢書』45巻[要ページ番号]
  35. ^ 『日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四〇〇時間の証言より』岩波書店、2015年7月16日。 
  36. ^ a b c d 伏見博明 2022 p.104
  37. ^ 野村實 1988, p. 58‐59.
  38. ^ 昭和21年宮内省告示第20号(『官報』第5878号、昭和21年8月17日)(NDLJP:2947339/10
  39. ^ 伏見博明 2022 p.106
  40. ^ 昭和21年宮内省告示第23号(『官報』第5880号、昭和21年8月20日)(NDLJP:2962392/2
  41. ^ 世界文化社刊「ビッグマンスペシャル。連合艦隊・日米開戦編」(1998年7月)157ページ記述より>
  42. ^ 「中山良昭『日本の貴人151家の運命』朝日新聞出版〈朝日新書〉、2010年12月30日、162頁」
  43. ^ a b 寺崎英成 2017, p. 83‐84.
  44. ^ 成美堂出版『太平洋戦争:日本帝国海軍』(2001年7月)P134~137記述より
  45. ^ 半藤一利『昭和史の人間学』文藝春秋〈文春新書〉、2023年1月、155頁。 
  46. ^ 「昭和7年前後における東郷グループの活動」田中宏巳
  47. ^ 浅見雅男 2012, p. 303‐304.
  48. ^ 浅見雅男 2012, p. 305.
  49. ^ a b 浅見雅男 2017, p. 308.
  50. ^ 「海軍戦争検討会議記録」P.80
  51. ^ a b 浅見雅男 2012, p. 309.
  52. ^ (日米開戦80年)迫る戦争、苦悩にじむ天皇”. 朝日新聞社. 2023年11月22日閲覧。
  53. ^ 「12倍の国力差」があるのに、「日米開戦やむなし」となった戦前の空気 「米国に勝てない」は常識だったが… (4ページ目)”. プレジデント社. 2023年11月22日閲覧。
  54. ^ 日本陸海軍の制度・組織・人事(日本近代史料研究会編、東京大学出版会)
  55. ^ PHP研究所刊『[証言録]海軍反省会』(2009/7/31)記述より
  56. ^ 浅見雅男 2012, p. 308.
  57. ^ a b 世界文化社刊「ビッグマンスペシャル。連合艦隊・日米開戦編」(1998年7月)157ページ記述より
  58. ^ a b 井上成美伝記刊行会 1982, pp. 145–146
  59. ^ 井上成美伝記刊行会 1982, pp. 152–153
  60. ^ 「中山良昭『日本の貴人151家の運命』朝日新聞出版〈朝日新書〉、2010年12月30日、162頁」
  61. ^ 浅見雅男『伏見宮』(講談社、2012年)[要ページ番号]
  62. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、6頁。
  63. ^ 『官報』第5822号、昭和21年6月13日。
  64. ^ 『官報』第3708号「叙任及辞令」1895年11月6日。
  65. ^ 『官報』第5820号付録、1902年11月26日(NDLJP:2949123/24
  66. ^ 『官報』号外「叙任」1905年11月03日。
  67. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  68. ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
  69. ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
  70. ^ 『官報』第1499号「叙任及辞令」1931年12月28日、p.742。
  71. ^ 『官報』第1621号「叙任及辞令」1932年5月28日。
  72. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  73. ^ 『官報』第4570号「宮廷録事 勲章親授式」1942年4月7日、p.213。

関連項目

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外部リンク

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日本の皇室
先代
邦家親王
伏見宮
1923年2月4日 - 1946年8月3日
次代
博明王
先代
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華頂宮
1883年4月23日 - 1904年1月16日
次代
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軍職
先代
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海軍大学校校長
第22代:1914年8月22日 - 1915年12月13日
次代
佐藤鉄太郎
先代
山屋他人
第二艦隊司令長官
第13代:1919年12月1日 - 1920年12月1日
次代
鈴木貫太郎
先代
谷口尚真
軍令部長 / 軍令部総長
1933年10月1日に改称
1932年2月2日 - 1941年4月9日
次代
永野修身