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閑院宮載仁親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
閑院宮載仁親王
閑院宮
御真影(1936年撮影)
続柄

全名 載仁(ことひと)
身位 親王
敬称 殿下
出生 1865年11月10日
慶応元年9月22日
山城国京都
江戸幕府政権下(幕末期)
死去 (1945-05-20) 1945年5月20日(79歳没)
日本の旗 日本神奈川県小田原市
埋葬 日本の旗 日本東京都文京区豊島岡墓地
配偶者 載仁親王妃智恵子(三条智恵子)
子女 篤仁王
安藤恭子(恭子女王)
黒田茂子(茂子女王)
季子女王
春仁王
寛子女王
戸田華子(華子女王)
父親 伏見宮邦家親王
母親 伊丹吉子
栄典 大勲位菊花章頸飾
功一級金鵄勲章
功二級金鵄勲章
功四級金鵄勲章
大正三年乃至九年戦役従軍記章
大正三四年従軍記章
明治三十七八年従軍記章
役職 元帥陸軍大将
貴族院議員
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称号:親王

閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう、1865年11月10日慶応元年9月22日) - 1945年昭和20年〉5月20日)は、日本皇族陸軍軍人日本赤十字社総裁、東京地学協会総裁(1895年 - 1945年)[1]日露協会総裁(1911年 - )[2]伏見宮邦家親王第16王子。称号階級並びに勲等功級元帥陸軍大将大勲位功一級。世襲親王家閑院宮第6代当主。

1900年以後から第二次世界大戦終了直前まで皇族軍人として活躍。親王宣下による親王では最後の生存者であり、また大日本帝国憲法下最後の国葬を行った人物である。

貴族院の創設に伴って皇族議員となり薨去まで54年6ヶ月間務めた。これは貴族院のみならず参議院まで含めても最長在任記録である。

経歴

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3歳で出家し、真言宗醍醐派総本山三宝院門跡を相続する。1871年明治4年)伏見宮に復籍のうえ、翌年前当主閑院宮第5代愛仁親王の没後、孝仁親王妃・鷹司吉子閑院宮初代直仁親王の曾孫)が当主格に遇されていた閑院宮家を継承する。

1877年(明治10年)、京都から東京に移り陸軍幼年学校に入学。1878年(明治11年)8月26日親王宣下され、幼名「易宮」を改めて載仁親王と称した。幼年学校の同期には明石元二郎由比光衛等がいる。1883年(明治16年)、幼年学校を卒業するやフランスへ留学。サン・シール陸軍士官学校、ソーミュール騎兵学校フランス陸軍大学校を卒業し軽騎兵第7連隊付を経て1891年(明治24年)に帰国。同年12月19日、三条実美の二女・智恵子と結婚。日清戦争では当初第1軍司令部付大尉として従軍、鴨緑江岸虎山付近の戦闘の際、伝令将校として弾雨を冒して馬を馳せ、その任務を達成し、「宮様の伝令使」のエピソードを残した。その後、騎兵第1連隊長、参謀本部に勤務の後、1901年(明治34年)に陸軍少将に進級し騎兵第2旅団長に就任。

日露戦争では、1904年(明治37年)10月12日の本渓湖の戦いで旅団を敵の側背に進出の上、不意討ちの攻撃を実行し、ロシア軍を敗走させた。またこの時、親王のアイデアで機関銃に三脚架を付けて進軍するなど、機関銃を巧妙に活用したことも日本軍の勝利に大いに貢献したという。その後満洲軍総司令部付きの武官として従軍し、戦後、陸軍中将に進級した。

1912年大正元年)に陸軍大将となり、1919年(大正8年)には元帥府に列した。1921年(大正10年)3月3日より同年9月3日まで、皇太子裕仁親王の欧州外遊を補導すべく随行した。1923年(大正12年)9月1日、小田原の閑院宮別邸に家族とともに滞在中、関東大震災に遭遇し一時倒壊した別邸の下敷きとなったが、たいした怪我はなく無事であった。

1931年昭和6年)に参謀総長に就任[3]。親王の身で参謀総長に就任した例は、明治年間の有栖川宮、小松宮に続き三例目[4]。 青年時から立派な髭を生やしており、「髭の参謀総長」と呼ばれた。この参謀総長就任は、当時の陸軍大臣荒木貞夫の思惑があったとされる。在任中は皇族という出自もあり、傀儡として政治的に利用されることも多かった。派閥争いの激しかった陸軍内部では、どの勢力も参謀総長宮を抱え込むことによる発言権の伸張を図った。しかしながら、当人は直属の参謀次長としてややもすれば独断で実務を切り回す皇道派真崎甚三郎への反感が強く、いわゆる統制派に近い立場を取った。また陸軍士官学校の騎兵科出身であることから、宇垣系の南次郎鈴木荘六植田謙吉らとの繋がりもあった。荒木貞夫が陸相を辞任した際には真崎が後任候補に上がったが、林銑十郎を推して陸相に就け、真崎は教育総監に回った。さらに真崎が教育総監を追われた際にも、渡辺錠太郎を通じて強く林に働きかけていたとも言われた。渡辺が二・二六事件で凶弾に倒れたのは、載仁親王が皇族であり手出しが出来なかったため、身代わりとして襲撃されたのではないか、と松本清張は推測している。 1936年(昭和11年)の二・二六事件発生時には、その対応の拙さから、かつて自らが教育した昭和天皇の叱責を受けた。このとき親王は70歳、天皇は35歳であった[注釈 1]

1940年(昭和15年)には、米内内閣の陸軍大臣であった畑俊六に辞表を提出するよう指示し、米内内閣を倒閣させた。日独伊三国同盟締結に積極的であった陸軍全般の意向を受けて、三国同盟の締結に反対していた海軍出身の米内光政首相を退陣させるためであったとされる。同年10月3日参謀総長の地位を杉山元に譲って軍務から退き、議定官となる。なお、総長在任当時は皇族ということもあって実務にはあまり関与せず、参謀次長が総長の業務も行っていた。陸軍次官時代の東條英機も当時の多田駿参謀次長が本来のカウンターパートである東條を抜きにして、同じ満洲派として親しかった陸相の板垣征四郎と直接協議に行くのを大変嫌っていたという。

1945年(昭和20年)5月20日、宮別邸にて79歳で薨去した。直後の山手空襲で宮邸が炎上したため、薨去に伴う儀式が大幅に削減されるなどまさに寂しい最後であった。

翌月国葬を賜った。親王宣下による親王および邦家親王の32名の子女で最後の生存者であり、大日本帝国憲法下では最後の国葬となった。稀に見る美丈夫で、北原白秋作詞、陸軍戸山学校軍楽隊作曲による国民歌「閑院参謀總長宮を讃え奉る」も作られている。貴族院創設に伴い1890年(明治23年)2月に皇族議員となり[5]、薨去まで54年6ヶ月間務めたが、これは貴族院のみならず参議院まで含めても最長在任記録である[注釈 2]衆議院を含む全国会議員中でも尾崎行雄中曽根康弘に次ぐ史上第3位である。

栄典

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血縁

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三条実美の次女智恵子妃との間に2男5女を儲ける。

年譜

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慶応元年1865年)11月10日 誕生
慶応3年(1867年 出家・三宝院門跡相続
明治4年(1871年 伏見宮復籍
明治5年(1872年01月 閑院宮家6代目継承
1877年(明治10年)10月 陸軍幼年学校入校
1878年(明治11年)08月 親王宣下・載仁の名を賜る
1882年(明治15年)09月 フランス留学(サン・シール陸軍士官学校、ソーミュール騎兵学校フランス陸軍大学校各卒業)
1887年(明治20年)08月18日 陸軍騎兵少尉・大勲位菊花大綬章受章
1890年(明治23年)11月 陸軍騎兵中尉
1891年(明治24年)07月 帰朝
1891年(明治24年)09月 陸軍士官学校生徒隊付
1892年(明治25年)11月 陸軍騎兵大尉・陸軍士官学校教官
1893年(明治26年)07月 騎兵第1大隊中隊長
1894年(明治27年)08月 陸軍乗馬学校教官
1894年(明治27年)09月 第1軍司令部付
1894年(明治27年)11月 陸軍騎兵少佐
1894年(明治27年)11月03日 騎兵第1大隊長心得
1895年(明治28年)10月 騎兵第1大隊付
1896年(明治29年)11月20日 騎兵第1連隊長心得
1897年(明治30年)11月 陸軍騎兵中佐・騎兵第1連隊長
1899年(明治32年)10月28日 参謀本部出仕(欧州出張)
1899年(明治32年)11月03日 陸軍騎兵大佐
1900年(明治33年)01月25日 参謀本部部員
1900年(明治33年)02月17日 欧州出張(ロシアほか)[15]
1900年(明治33年)09月03日 帰朝
1901年(明治34年)11月03日 陸軍少将騎兵第2旅団
1902年(明治35年)06月 来日したボリス・ウラジーミロヴィチアレクサンドル2世の孫)と会見
1903年(明治36年) 日本赤十字社総裁
1904年(明治37年)09月21日 満洲軍総司令部付
1904年(明治37年)11月03日 陸軍中将
1905年(明治38年)05月 大本営
1905年(明治38年)12月20日 参謀本部
1906年(明治39年)02月03日 第1師団
1911年(明治44年)09月06日 近衛師団長、日露協会総裁就任
1912年(大正元年)11月27日 陸軍大将軍事参議官
1914年(大正3年) 昭憲皇太后御大葬総裁
1916年(大正5年)08月 ロシア出張[注釈 3]。皇帝ニコライ2世、皇太子、皇太后らロシア皇族と会見し、皇太后から「非常に愛想の良い、話し好きな人物」と表される[16]
1916年(大正5年)10月 帰朝
1919年(大正8年)12月12日 元帥
1921年(大正10年)3月3日より 皇太子裕仁親王の御渡欧に随行。
1921年(大正10年)09月03日 帰朝。
1921年(大正10年)09月24日 大勲位菊花章頸飾
1923年(大正12年)09月01日 小田原市の閑院宮御別邸に滞在中関東大震災に遭遇。
1923年(大正12年)10月27日 議定官
1927年(昭和2年) 大正天皇御大葬総裁
1928年(昭和3年) 昭和天皇即位の大礼総裁
1930年(昭和5年)12月05日 帝都復興記念章を授与された。
1931年(昭和6年)12月23日 参謀総長[17]
1940年(昭和15年)10月03日 辞職・議定官
1942年(昭和17年)04月04日 功一級金鵄勲章
1944年(昭和19年)01月15日 数え年80歳を祝し宮中杖(鳩杖)を下賜される。
1945年(昭和20年)05月20日 小田原の閑院宮御別邸にて薨去
1945年(昭和20年)06月18日 国葬

脚注

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注釈

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  1. ^ 参謀総長としての載仁親王については、浅見雅男『皇族と帝国陸海軍』(文春新書、2010年)101頁~110頁に詳しい。
  2. ^ なお他の皇族議員と同じく具体的に議員としての活動はしていない。
  3. ^ 日本の皇族のロシア訪問はこれ以降、2018年憲仁親王妃久子が訪問するまで途絶えることになる。

出典

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  1. ^ 『東京地学協会報告』(明治一二-三〇年) : 明治前半の日本地理学史資料として石田龍次郎, 一橋大学研究年報. 社会学研究, 10, 1969-03-31
  2. ^ 日露協会デジタル版『渋沢栄一伝記資料』
  3. ^ 閑院宮の親補式を挙行『大阪毎日新聞』昭和6年12月24日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p221 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  4. ^ 閑院宮が就任、皇族では明治以来三人目『東京朝日新聞』昭和6年12月23日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p220)
  5. ^ 衆議院 & 参議院 1990, p. 2.
  6. ^ 『官報』第3737号「叙任及辞令」1895年12月11日。
  7. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  8. ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
  9. ^ 『官報』第2209号「叙任及辞令」1919年12月13日。
  10. ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
  11. ^ 『官報』第1499号「叙任及辞令」1931年12月28日、p.742。
  12. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  13. ^ 『官報』第4570号「宮廷録事 勲章親授式」1942年4月7日、p.213。
  14. ^ 平成新修旧華族家系大成上p33
  15. ^ 「官報 1900年02月17日 宮廷錄事 閑院宮御出發(p236)」NDLJP:2948278/1/3
  16. ^ 1916年閑院宮載仁親王のロシア訪問―来露100年を記念してセルゲイ・チェルニャフスキー、東京大学史料編纂所研究紀要 第27号 2017年3月
  17. ^ 『官報』第1497号「叙任及辞令」1931年12月24日、p.653。

参考文献

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  • 浅見雅男『皇族と帝国陸海軍』(文春新書、2010年)
  • 閑院純仁 『私の自叙伝』(人物往来社 1966年)
  • 閑院純仁 『日本史上の秘録』(日本民主協会 1967年)
  • 『宮家の時代』鹿島茂編(朝日新聞社 2006年)
  • 『日本の肖像 第十二巻 旧皇族 閑院家 東久邇家 梨本家』大久保利謙監修 社団法人霞会館協力(毎日新聞社 1991年)
  • 『皇族・華族 古写真帖 愛蔵版』(新人物往来社 2003年)
  • 衆議院、参議院『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。 

関連項目

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外部リンク

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日本の皇室
先代
愛仁親王
閑院宮
1872年 - 1945年
次代
春仁王
軍職
先代
-
騎兵第2旅団長
初代:1901年4月2日 - 1904年7月10日
次代
田村久井
先代
飯田俊助
第1師団長
第5代:1906年2月3日 - 1911年9月6日
次代
木越安綱
先代
上田有沢
近衛師団長
第11代:1911年9月6日 - 1912年11月27日
次代
山根武亮
先代
金谷範三
参謀総長
第14代:1931年12月23日 - 1940年10月3日
次代
杉山元
学職
先代
久邇宮邦彦王
皇典講究所総裁
第5代:1930年 - 1945年
次代
梨本宮守正王