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土岐定経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
土岐定経
時代 江戸時代中期
生誕 享保13年9月6日1728年10月8日
死没 天明2年8月20日1782年9月26日
改名 千之助(幼名)、定経
別名 頼母(通称
戒名 乾隆院殿元徳道亨大居士
墓所 東京都品川区北品川東海寺春雨庵
官位 従五位下美濃守
幕府 江戸幕府奏者番寺社奉行大坂城代
主君 徳川家重家治
上野沼田藩
氏族 土岐氏
父母 父:土岐頼稔、母:不詳
養父:土岐頼煕
兄弟 頼煕菅沼定興定則定経松平康福正室、智峰院、木下俊泰正室、織田輔宜正室ら
不詳
頼相頼寛定吉定富定考頼布井上正定継室、磯ら
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土岐 定経(とき さだつね)は、上野国沼田藩の第3代藩主。沼田藩土岐家6代。

生涯

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初代藩主・土岐頼稔の五男として田中に生まれる。宝暦5年(1755年)、兄の先代藩主・頼煕が嗣子無くして死去したため、その跡を継いだ。藩財政再建のために重税を領民に課そうとしたが、見取騒動が起こったため失敗に終わった。明和元年(1764年)2月に奏者番、同年6月に寺社奉行、天明元年(1781年)に大坂城代となった。

天明2年(1782年)8月20日、大坂にて55歳で死去し、跡を次男の頼寛が継いだ。

系譜

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父母

子女

脚注

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  1. ^ 別名は頼量。