堀田正順
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 延享2年9月29日(1745年10月24日) |
死没 | 文化2年7月12日(1805年8月6日) |
戒名 | 惟心院定阿観月義徳 |
墓所 | 東京都台東区西浅草の日輪寺 |
官位 | 従五位下・相模守、従四位下・侍従、大蔵大輔 |
幕府 | 江戸幕府 奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 下総佐倉藩主 |
氏族 | 堀田氏 |
父母 | 父:堀田正亮、母:町田氏 |
兄弟 |
正定、正泰、正順、正通、正時、園、 戸田氏英正室、松平忠祇正室、 本多助之正室、大久保忠喜正室、祥運院、上田義篤正室、横山知明正室 |
妻 | 正室:松平頼恭の娘・能 |
子 |
正功、 弥、八十 正時 |
堀田 正順(ほった まさなり)は、江戸時代中期の大名。下総国佐倉藩2代藩主。官位は従四位下・侍従、大蔵大輔。正俊系堀田家6代。
略歴
[編集]佐倉藩初代藩主・堀田正亮の六男(五男とも)として誕生した。父の死去に伴い17歳で家督相続し、大坂城代、京都所司代などを務める。寛政4年(1792年)、佐倉宮小路に佐倉学問所、温古堂(成徳書院)を開設した。これは現在の佐倉高等学校の前身とされる。長男の正功が早世したため、弟の正時が家督を相続した。
正順の代で、甲州流の兵制に斟酌を加えて御家流と称し、それにもとづいて訓練するようになった[1]。
経歴
[編集]- 1745年(延享2年) - 生まれる
- 1761年(宝暦11年) - 堀田家家督相続(3月26日)
- 1774年(安永3年) - 奏者番
- 1783年(天明3年) - 寺社奉行(7月28日)
- 1787年(天明7年) - 大坂城代(4月19日)
- 1792年(寛政4年) - 京都所司代(8月27日)
- 1798年(寛政10年) - 京都所司代辞任(12月8日)
- 1805年(文化2年) - 死去、享年61
官位位階
[編集]系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 依田学海『学海余滴』笠間書院、2006年、393p頁。