コンテンツにスキップ

清水喜重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
清水喜重

清水 喜重(しみず よししげ、1880年12月20日 - 1953年8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

近衛歩兵第3連隊長時代

経歴

[編集]

愛媛県出身。士族・清水喜行の二男[1]陸軍幼年学校を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。1904年(明治37年)3月、日露戦争に出征し戦傷を受けた。同年8月、陸軍中央幼年学校生徒監となり、陸士生徒隊付などを経て、1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を卒業。

1910年12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を経て、1916年(大正5年)1月、東宮武官に就任し、同年5月、歩兵少佐に昇進。1919年(大正8年)5月、歩兵第3連隊大隊長に転じ、青島守備軍参謀に異動。1920年(大正9年)8月、歩兵中佐に進級。1921年(大正10年)7月、参謀本部員に就任し、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し参謀本部付となる。

1924年(大正13年)2月、陸軍歩兵学校教官に移り、近衛歩兵第3連隊長、参謀本部課長を歴任。1928年(昭和3年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第33旅団長に就任。1929年(昭和4年)8月、陸士幹事となり、台湾軍参謀長を経て、1933年(昭和8年)3月、陸軍中将に進み由良要塞司令官に就任。

1934年(昭和9年)12月、第4独立守備隊司令官に転じ、1936年(昭和11年)3月、第12師団長に親補された。1937年(昭和12年)3月、参謀本部付となり、翌月、予備役編入。1938年(昭和13年)5月に召集を受け、第116師団長に就任し日中戦争に出征。兵站基地警備、漢口攻略戦などに参加。1939年(昭和14年)5月、召集解除。1941年(昭和16年)3月から1945年(昭和20年)まで山水中学校長を務めた。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]

人物

[編集]

趣味は読書[1]。宗教は真言宗[1]。住所は東京市渋谷区代々木西原[1]

栄典

[編集]

家族・親族

[編集]
清水家
  • 妻・はな[4]1888年 - ?、東京、安立綱之の長女)[4]
  • 長男・一承[1]1911年 - ?) - 陸軍士官学校出身[1]
  • 長男・重之[1]1914年 - ?) - 陸軍士官学校出身[1]
  • 長女・まさ子1908年 - ?、鳥取、八原博通の妻)[1]
親戚

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第13版 上』シ84頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年2月2日閲覧。
  2. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」138頁。
  3. ^ 『官報』第2786号「叙任及辞令」1936年4月18日。
  4. ^ a b c 『人事興信録 第10版 上』ア3頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年2月2日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 人事興信所編『人事興信録 第10版 上』人事興信所、1934年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。