船場 (大阪市)
船場(せんば)は、大阪府大阪市中央区の地域名。大阪市の中心業務地区 (CBD) に当たる。大坂の町人文化の中心となった所で、船場言葉は江戸時代から戦前期にかけて規範的・標準的な大阪弁と見なされていた。
概要
[編集]範囲
[編集]船場の範囲は、以下の河川と人工の堀川に囲まれた(囲まれていた)、南北約2km、東西約1kmの四角形の地域である。
江戸時代の町組の名残で、本町通の北を北船場(きたせんば)、本町通の南を南船場(みなみせんば)と呼び分けることもある。東は上町、南は島之内、西は下船場、北は中之島に接する。現在ではまれであるが、上町を東船場、下船場を西船場とみなして、船場を中船場と称することもある[1]。
船場の語源については、以下の説が挙げられている[2]。
- しばしば戦争があった場所で、「戦場」と呼ばれた。
- 大坂城の馬を洗った場所で、「洗馬」と呼ばれた。
- 砂浜であったため「砂場(さば)」と呼ばれ、これが転訛して「センバ」となった。
- 古代は船着き場であって、着船場の「着」の字を省いて「船場」となった[3]。
現在の町名
[編集]- 北から南の順
街路と街並み
[編集]船場地域には通(とおり)と呼ばれる東西にのびる街路が23本、筋(すじ)と呼ばれる南北にのびる街路が13本あり、通と筋が直交し、40間四方の正方形を単位とした碁盤目状の街区を作っている。 町割の基軸に関しては、上町地域の基軸となっている東西方向の主要街路(通り)が船場へと通じ、船場の町割の基軸として継承されている。さらに、下船場においては、これらの通りの軸上に開削された堀川が、下船場の町割の基軸となっている。すなわち、上町から下船場に至るまで、通りから堀川へと町割の基軸が継承されている[4]。 町割が設定された当初は、通の幅員は4.3間であり、筋の幅員3.3間に対して広く設定されていた。これは船場では通が重視されたためであり、殆どの大商家は通に面し、筋に面することは稀だった[5]。 船場地域は大坂城の西に位置することから、城へ向かう方向である竪(たて)は東西方向となり、竪に直交する横(よこ)は南北方向となる。船場の東端・西端をそれぞれ南へ流れる堀川を東横堀川・西横堀川と称するのもこれによる。歴史地理学の伝統的な城下町の分類では、短冊状の街区の長方向が竪方向であるものを竪町割りと呼ぶが、船場地域の基本的な町割りは東西に長い竪町割りで、東から丁目数にして5程度の町が多かった[6]。ただし、西横堀筋は全て南北方向に長い横町割りで、渡辺筋・佐野屋橋筋・御堂筋の各一部にも横町割りが見られた。明治以降に東西の通から南北の筋に賑わいの中心が移ったが、東西方向の竪町割りは依然健在で、平成以降は竪町割りに統一されている。なお、現在の町名では「町」は全て「まち」と読む。
船場の通
[編集](北から南の順)
- 土佐堀通 - 幅員12間の幹線道路。古くは北浜通、土佐堀浜通と呼ばれた。1911年に拡幅されるまで東端は東横堀川に達しておらず、船場の北東隅は蟹島新地(かにしましんち)と呼ばれる遊興地となっていた。堺筋交点に大阪取引所、淀屋橋南西袂に「淀屋の碑」が所在する。御霊筋以西は住友ビルディング・三井住友銀行大阪本店ビルが所在し「住友村」の一画を成す。
- 淀屋小路(よどやしょうじ) - 心斎橋筋 - 御霊筋間にのみ敷かれた小路。元は渡辺筋まであった。淀屋の屋敷に由来する。
- 内北浜通 - 江戸時代の町名から古くは梶木町(かじきまち)通と呼ばれた。東端は一つ南の今橋西詰となり、東横堀筋に接続する。適塾、大阪市立愛珠幼稚園がある。
- 今橋通 - 御堂筋に面して東側に日本生命、西側に淀屋橋odona、大阪倶楽部がある。
- 浮世小路(うきよしょうじ) - 京都でいう突抜に相当する。
- 高麗橋通 - 2005年5月まで堺筋に面して三越大阪店があった。
- 伏見町通 - 芝川ビルが有名。御堂筋を挟んで西側に阪和興業、東側にKISCOがある。
- 道修町通 - 武田薬品や塩野義製薬をはじめとする製薬会社のオフィスが集中し、東京の日本橋本町とともに日本を代表する薬品街。神農(しんのう)さんとして知られる少彦名(すくなひこな)神社があり、11月22日から11月23日の勤労感謝の日の前後の神農祭の神社の宗教行事の期間は周辺の街が賑わいを見せる。境内には春琴抄の碑が、隣接してくすりの道修町資料館がある。
- 平野町通 - イトーキ資料館、湯木美術館があるほか、御堂筋に面してガスビル(大阪ガス本社)が、堺筋に面して生駒ビルヂングがある。
- 淡路町通 - 御堂筋を挟んで西側に御霊神社が、2丁目には船場ビルディングがある。
- 瓦町通
- 備後町通 - 堺筋に面してりそな銀行本店がある。
- 安土町通 - 御堂筋に面する本願寺津村別院(北御堂)に突き当たる。北御堂境内の南西には系列の相愛中学校・高等学校および相愛大学本町キャンパス、南東には大阪第二有楽ビル、御堂ビル(竹中工務店本社・大阪本店)が所在する。
- 絹張小路(きぬばりしょうじ) - 板屋橋筋 - 堺筋以西・藤中橋筋手前のみ敷かれた小路。元は東横堀筋 - 藤中橋筋まであった。
- 本町通 - 幅員12間の幹線道路。北船場と南船場の境界。大阪産業創造館(大阪企業家ミュージアム)、メットライフ本町スクエア(旧大阪丸紅ビル)、御堂筋に面して南東にセントレジスホテル大阪がある。
- 鰻小路(うなぎしょうじ) - 東横堀筋 - 八百屋町筋間にのみ敷かれた小路。
- 南本町通 - 江戸時代の南本町1丁目上半の通称から古くは米屋町(こめやまち)通と呼ばれた。御堂筋に面してヨドコウ本社がある。
- 本町の曲り - 東横堀筋の一部。
- 中央大通 - 幅員80mの幹線道路。船場の区間は1970年に完成。唐物町(からものまち)通と北久太郎町(きたきゅうたろうまち)通の2本の通りとその間の街区が道路用地に充てられている。唐物町通が東行き、北久太郎町通が西行きの平面道路に拡幅され、平面道路の間に繊維問屋が集まる船場センタービルが建ち、その上を高架道路と阪神高速13号東大阪線が走っている。地下には地下鉄中央線が走る。町名は1970年より船場センタービルが船場中央となり、1989年より唐物町残余が南本町に編入、北久太郎町残余が南久太郎町と統合されて久太郎町となった。中央区役所がある。
- 久太郎町通 - 中央大通の整備までは南久太郎町通と呼ばれた。御堂筋に面する真宗大谷派難波別院(南御堂)に突き当たる。南御堂境内の北にはH型のツインビルである大阪センタービル(北棟)・大阪御堂筋ビル(南棟。旧伊藤忠ビル)、南東には山門を兼ねた南御堂ビル(大阪エクセルホテル東急)が所在する。
- 北久宝寺町通
- 南久宝寺町通 - 問屋街で知られ、大阪久宝寺町卸連盟によって東横堀筋 - 心斎橋筋間の歩道にアーケードが設置されている。
- 博労町通 - 御堂筋に面して西側に難波神社がある。
- 順慶町(じゅんけいまち)通 - 現在の町名は南船場。三休橋筋との交差付近は宝石貴金属卸が集まる宝飾問屋街となっている。
- 安堂寺橋(あんどうじばし)通 - 現在の町名は南船場。
- 塩町(しおまち)通 - 現在の町名は南船場。かつては砂糖商が多く居住しており、1925年(大正14年)から1939年(昭和14年)まで大阪砂糖取引所が設置された。
- 長堀通 - 幅員50mの幹線道路。1964年、長堀川が埋め立てられるまでは末吉橋(すえよしばし)通と呼ばれた。現在の町名は南船場。
通の覚え歌
[編集]浜梶木
今は浮世と(に)高伏道
ひらあ瓦に備後安土
本米唐物
久太久太に久久宝
博労順慶
安堂塩町
浜
北浜、梶木町、今橋、浮世小路、高麗橋、伏見町、道修町、平野町、淡路町、瓦町、備後町、安土町、本町、米屋町、唐物町、北久太郎町、南久太郎町、北久宝寺町、南久宝寺町、博労町、順慶町、安堂寺町、塩町、浜(長堀通)
船場の筋
[編集]京都洛中のように多くの町名・町筋が伝統的に継承されず、また京都市や神戸市とは異なり大阪市は幹線道路の愛称しか表記しておらず、さらには、船場が東西方向の町割であることから、筋の名称は現在ではそれほど認知されていない。ただし、電柱や街灯、アーケードの出入口、船場センタービルとの交差部などに筋の名称が表記されている箇所がある。
(東から西の順)
- 東横堀筋 - 東横堀川沿い。蟹島新地は1783年に築かれた新地であり、東横堀筋は土佐堀通ではなく今橋通からスタートする。本町の曲りで東へ追加される筋へ移った直後、中央大通の高架道路の傾斜の影響で分断され、中央大通を縦断することはできない。
- 箒屋町(ほうきやまち)筋 - 本町の曲りで東へ追加される筋へ東横堀筋が移るため、同所以南で箒屋町筋と名称を変える。
- 板屋橋(いたやばし)筋 - 一丁目(いっちょうめ)筋とも呼ばれる。
- 八百屋町(やおやまち)筋
- 堺筋 - 幅員12間の幹線道路。御堂筋の拡幅以前の目抜き通りで、大大阪時代に建てられたビルも数多く現存する。
- 藤中橋(ふじなかばし)筋 - 難波橋(なにわばし)筋とも呼ばれる。かつては大川に難波橋が架橋され、中国街道に接続する往来の多い道路で、隣の堺筋と繁栄を二分していた。しかし、1911年の市電敷設計画に反対したことが明暗を分け、1915年にはシンボルだった難波橋が堺筋に架け替えられた。その7年前の1908年に長堀川に藤中橋が架橋され、難波橋を失った難波橋筋は藤中橋筋とも呼ばれるようになった。
- 中橋(なかばし)筋
- 三休橋筋 - 栴檀木橋(せんだんのきばし)筋とも呼ばれる。大阪市の道路整備計画により歩道幅が確保され、大阪ガスなどから寄贈されたガス灯が並び、風情のある景観となっている。
- 丼池(どぶいけ)筋 - 繊維問屋街。大阪で最初にアーケードが出来たのが丼池筋である。1993年老朽化により大阪最古のアーケードは撤廃された。現在は丼池ストリートとも呼ばれている。
- 心斎橋筋 - 島之内側の心斎橋筋商店街が有名であるが、船場側にもせんば心斎橋筋商店街および心斎橋筋北商店街が形成されている。
- 御堂筋 - 幅員24間の幹線道路。1937年の拡幅までは淡路町通との交点で屈折していたため、同所以南の北御堂・南御堂のある区間を御堂筋、以北を淀屋橋筋と称した。大阪の象徴ともいえる目抜き通り。
- 御霊(ごりょう)筋・狐小路(きつねしょうじ)・佐野屋橋(さのやばし)筋 - 北御堂・南御堂によって分断されるため、御霊神社の沿道となる北御堂以北が御霊筋、北御堂 - 南御堂間が狐小路、南御堂以南が佐野屋橋筋と呼ばれる。なお、狐小路は旧・北久太郎町通(現・中央大通西行き)まであったが、1970年の中央大通の竣工によって旧・唐物町通(現・中央大通東行き)までに短縮された。
- 渡辺(わたなべ)筋 - 淡路町通との交点で屈折しているため、同所以北は魚棚(うおのたな)筋とも呼ばれる。
- 西横堀筋 - 西横堀川沿い。かつて「横堀」という町名だったことから単に横堀筋とも呼ばれる。中央大通の高架道路の傾斜の影響で、中央大通を縦断することはできるものの、高さ制限2.0mとなるので注意。
歴史
[編集]1583年に豊臣秀吉によって大坂城の築城および大坂城下の開発が開始された。豊臣初期の大坂城下の中心は、大坂城以前にあった旧石山寺内・港湾都市である港の渡辺津 (渡辺津以前は難波津・住吉津が存在した) ・玉造といった上町で、また、大川を挟んで上町の北に位置する中島寺内の開発も1585年から開始された。上町の西に位置する船場の開発はこの時期はまだ萌芽的なものであったが、1598年から始まった大坂城三の丸の造営により、城内となった渡辺・玉造の地に居た町人の移転先として船場の開発が本格化する。大坂の陣後、松平忠明による復興の際に島之内と下船場の開発が本格化し、さらに渡辺・玉造の地へ再度町人地が置かれることとなった。また、淀屋常安による中之島の開発も始まり、幕府直轄地となる1619年頃には、城下とは別の町とみなされていた旧中島寺内を天満として大坂城下に取り込み、以降の大坂城下は船場を中心に展開されるようになった[9]。
町名の変遷
[編集](参照:[10])
明治以前
[編集]明治初頭には137町(うち東西方向の町:126町、南北方向の町:11町)あった。
東西方向の町 (北から南の順)
- 大川町・過書町(かしょまち)・北浜2丁目・北浜1丁目
- 梶木町
- 尼崎町2丁目・尼崎町1丁目・今橋2丁目・今橋1丁目
- 大豆葉町(まめのはちょう)・四軒町(しけんちょう)・上人町(しょうにんまち)・高麗橋3丁目・高麗橋2丁目・高麗橋1丁目
- 呉服町・伏見町・本天満町(もとてんまちょう)・本靱町(もとうつぼちょう)
- 古手町(ふるてまち)・道修町5丁目・道修町4丁目・道修町3丁目・道修町2丁目・道修町1丁目
- 亀井町・善左衛門町・平野町3丁目・平野町2丁目・平野町1丁目
- 津村北之町・淡路町切町(あわじまちきれちょう)・中船場町・北鍋屋町・淡路町2丁目・淡路町1丁目
- 津村西之町・津村中之町・津村東之町・三郎右衛門町・南鍋屋町・百貫町(ひゃっかんちょう)・瓦町2丁目・瓦町1丁目
- 津村南之町・御堂前町・升屋町(ますやちょう)・備後町5丁目・備後町4丁目・備後町3丁目・備後町2丁目・備後町1丁目
- 浄覚町・安土町3丁目・安土町2丁目・上魚屋町・安土町1丁目
- 本町5丁目・本町4丁目・本町3丁目・本町2丁目・本町1丁目
- 南本町5丁目・南本町4丁目・南本町3丁目・南本町2丁目・南本町1丁目下半・南本町1丁目上半
- 雛屋町・唐物町4丁目・唐物町3丁目下半・唐物町3丁目上半・唐物町2丁目下半・唐物町2丁目上半・唐物町1丁目
- 北久太郎町5丁目・北久太郎町4丁目・北久太郎町3丁目・北久太郎町2丁目・北久太郎町1丁目
- 南久太郎町6丁目・南久太郎町5丁目・南久太郎町4丁目・南久太郎町3丁目・南久太郎町2丁目・南久太郎町1丁目
- 源左衛門町・伝馬町・北久宝寺町4丁目・北久宝寺町3丁目・北久宝寺町2丁目・北久宝寺町1丁目
- 南久宝寺町5丁目・南久宝寺町4丁目・南久宝寺町3丁目・南久宝寺町2丁目・南久宝寺町1丁目
- 博労町・茨木町・金田町・金沢町
- 初瀬町(はつせちょう)・浄国寺町・順慶町5丁目・順慶町4丁目・順慶町3丁目・順慶町2丁目・順慶町1丁目
- 北勘四郎町・安堂寺町5丁目・安堂寺町4丁目・安堂寺町3丁目・安堂寺町2丁目下半・安堂寺町2丁目上半・安堂寺町1丁目
- 南勘四郎町・車町(くるままち)・塩町4丁目・塩町3丁目・塩町2丁目・塩町1丁目
- 長堀平右衛門町(西横堀川以東・長堀川以北)・長堀10丁目(長堀川以北)・長堀心斎町(同左)・長堀次郎兵衛町(同左)・長堀橋本町
南北方向の町 (東から西の順)
- 北久宝寺町5丁目
- 上難波町
- 北渡辺町・南渡辺町
- 七郎右衛門町1丁目・七郎右衛門町2丁目・浜町・長浜町・椹木町(さわらぎちょう)・西笹町・五幸町(ごこうまち)
明治
[編集]1872年(明治5年)の町名改編で109町(うち東西方向の町:98町、南北方向の町:11町)となった。
- 大川町
- 北浜(5~1丁目)
- 今橋(5~1丁目)
- 高麗橋(5~1丁目)
- 伏見町(5~1丁目)
- 道修町(5~1丁目)
- 平野町(5~1丁目)
- 淡路町(5~1丁目)
- 瓦町(5~1丁目)
- 備後町(5~1丁目)
- 安土町(4~1丁目)
- 本町(4~1丁目)
- 南本町(4~1丁目)
- 唐物町(4~1丁目)
- 北久太郎町(4~1丁目)
- 南久太郎町(4~1丁目)
- 北久宝寺町(4~1丁目)
- 南久宝寺町(4~1丁目)
- 博労町(4~1丁目)
- 順慶町通(4~1丁目)
- 安堂寺橋通(4~1丁目)
- 塩町通(4~1丁目)
- 末吉橋通(4~1丁目)
南北方向の町 (東から西の順)
- 上難波北之町・上難波南之町
- 北渡辺町・南渡辺町
- 横堀(1~7丁目)
大正
[編集]1914年(大正3年)の町名改編で上難波北之町・上難波南之町が北久宝寺町5丁目・南久宝寺町5丁目・博労町5丁目となり、全110町(うち東西方向の町:101町、南北方向の町:9町)となった。
昭和
[編集]1930年(昭和5年)の町名改編で北渡辺町・南渡辺町が本町5丁目・南本町5丁目・唐物町5丁目・北久太郎町5丁目・渡辺町となり、全113町(うち東西方向の町:105町、南北方向の町:8町)となった。
1970年(昭和45年)の町名改編で唐物町(5~1丁目)・北久太郎町(5~1丁目)の各一部が船場中央(5~1丁目)となり、全123町(うち東西方向の町:115町、南北方向の町:8町)となった。
1982年(昭和57年)の町名改編で順慶町通(4~1丁目)・安堂寺橋通(4~1丁目)・塩町通(4~1丁目)・末吉橋通(4~1丁目)・横堀7丁目が南船場(4~1丁目)となり、全111町(うち東西方向の町:103町、南北方向の町:7町)となった。
平成
[編集]1989年(平成元年)の町名改編で大川町を北浜に編入、唐物町を南本町に編入、北久太郎町・南久太郎町を久太郎町として統合、南北方向の横堀(1~6丁目)・渡辺町を東西方向の各町に編入の上、安土町を除いて4~1丁目に再編し(安土町のみ3~1丁目に再編)、全71町(うち東西方向の町:71町、南北方向の町:なし)となった。
現代の船場
[編集]繊維問屋や商社、証券会社、銀行の集中により、過密が問題となり、問屋街の郊外移転などが行われていた(例えば繊維問屋街の一部が箕面市の大阪船場繊維卸商団地、愛称「COM ART HILL」へ)。
現在、いまだに過密であることに変わりはないが、かつての活気が船場からは失われつつある。一方、地元も様々な運動を開始し、他の地域との協力・交流も始めている。例えば、2005年3月26日には綿業会館(国の重要文化財、中央区備後町2-5-8)で、四団体共同で船場フォーラムが行われた。四団体とは、銀座まちづくり会議(東京)、横濱まちづくり倶楽部(横浜)、都心界隈まちづくりネット(京都)、せんばGENKIの会(大阪)である。
交通
[編集]- 鉄道
淀屋橋駅 | 北浜駅 | 京阪本線 |
---|---|---|
本町駅 | 堺筋本町駅 | 中央線 |
心斎橋駅 | 長堀橋駅 | 長堀鶴見緑地線 |
御堂筋線 | 堺筋線 |
このうち、堺筋本町駅には2011年9月30日に「船場東」、本町駅(下船場に位置する四つ橋線ホームを除く)には2011年10月1日に「船場西」の副名称がそれぞれ、駅名標に追記された[11]。
- バス
船場地域を運行するバス路線として、大阪シティバスの8号系統がある。
関連項目
[編集]- 大阪都心6区
- 女系家族:山崎豊子の小説。
- 小倉屋山本:山崎豊子の生家の昆布屋。南船場に本店を置いている。
- 船場太郎:吉本新喜劇の役者。かつて大阪市市議会議長を務めた。
- 船場汁
- 小田巻き蒸し
- 上田竹翁
- 船場 (企業)
- 船場吉兆
- 大阪弁#船場言葉
- あかんたれ
脚注
[編集]- ^ 橋本藤四郎『大阪市地理指導』橋本藤四郎、1911年10月、pp.24-32
- ^ 牧村史陽編 『大阪ことば事典』 講談社、1979年、385-386頁
- ^ 牧村史陽は船着き場だったことに由来するとの説を妥当としている
- ^ 阿倍貴弘、篠原修『近世城下町大坂 江戸の町人地における城下町設計の論理』土木学会論文集D2(土木史)Vol.68, No.1, 2012, p.72
- ^ 辻野増枝、青木洋子、白木小三郎『「北船場」の町割と町屋の変遷について -特に江戸時代から今日まで-』大阪市立大学生活科学部紀要・第28巻、1980年、p.176
- ^ 松尾信裕『豊臣時代の伏見城下町と大坂城下町』大阪歴史博物館研究紀要 第13号、2015年2月、p.37
- ^ 船場倶楽部 集英地域活動協議会 編『船場ガイドブック2020』2021年、p.2
- ^ 大阪市立開平小学校職員 編『わが町船場 -いま・むかし-』大阪市立開平小学校、2010年
- ^ 宮本又次『大阪の商人について』工業教育14巻1-2号、1967年、p.8-31
- ^ 大阪市北区 編『北区財産区誌』1939年、pp.9-16
- ^ “「船場」ブランド復活へ 地下鉄・本町駅などの副名称に”. MSN産経ニュース (2011年9月30日). 2012年2月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月1日閲覧。
参考文献
[編集]- 楳垣実『船場言葉』近畿方言学会、1955年
- 辻野増枝、青木洋子、白木小三郎『「北船場」の町割と町屋の変遷について-特に江戸時代から今日まで-』大阪市立大学生活科学部紀要・第28巻、1980年
- 香村菊雄『定本船場ものがたり』創元社、1986年