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Wikipedia:井戸端/subj/導入部の定義における循環について

導入部の定義における循環について

[編集]

XX国のYY」といった形式で立ち上げられている記事ですが、その導入部について

XX国のYYでは、XX国のYYについて述べる。

のみとだけ記載して、作成しているパターンが存在します。しかしなのですが、このパターンの記事では、そもそも語句XXが分からない方は記事XXを参照し、語句YYが分からない方は記事YYを参照しますから、実質的にはこの導入部は、情報量ゼロの記載になっていると感じます。

このときに読者らに望まれているのは、何らかの新たな情報を提供している文章であり、たとえばフランスの鉄道イタリアの鉄道、以下などの形がよいと思っております。

XX国の農業は、温暖湿潤気候に属しており、最も生産されているのはコメである...

Wikipedia:スタイルマニュアル (レイアウト)においては、定義とは「最初の文で定義を行ってください。最初の文だけを取り出しても語句説明ができているかどうかが目安です。」とされています。 単なる「XX国のYYとは、XX国のYYのことである。(終了)」では、辞典を読まずとも答えられるような文章で、これでは情報量ゼロで、説明もゼロであり、調べに来た人をがっかりさせると私思います。

なお英語版では、これは "This is a list of X" の例にあるように、「Xの一覧とは、Xに関する一覧である。」といった逐語的な繰り返し(A clearer and more informative introduction to the list is better than verbatim repetition of the title.)は、可能であれば推奨されない(better)とされているようです。

この件については、そういった形で書くことができる有志が徐々に直していけばよい話だと思います。しかし一部では「XX国のYYについて述べる。」として機械的にそろえようとする行動も見られるので、考えについて皆さんの意見をお願いします。--Soren Bradley会話2017年4月14日 (金) 10:48 (UTC)[返信]

よい例として挙げられているどの例も「定義」ではないと思います。恐らく無理に「定義」を付けようとした結果、そのような表現になってしまっているのではないでしょうか。そういった意味ではスタイルマニュアルに注記を追加した方が良いかもしれませんね。--Hiroes会話) 2017年4月14日 (金) 11:26 (UTC)冒頭部追記 --Hiroes会話2017年4月14日 (金) 23:30 (UTC)[返信]
コメント 追記 提案してきました。あちらで書いていて気付いたのですが、問題のあると思われるページの具体例がいくつかあるとより議論が進めやすいかと思います。--Hiroes会話2017年4月14日 (金) 11:55 (UTC)[返信]
コメント 個人的意見ですが、私は前者の方が記事の定義がハッキリして利用者のためだと考えています。後者の文章は、定義なしに唐突に本文が始まるように見えて、その記事だけを見た場合に違和感が拭えません。一方前者では「記事の扱う内容」が明確に宣言されていて、内容の理解を助けるかと思います。如何でしょうか?
(上記の例だと分かりにくいですが、例えば スリランカ関係記事の一覧海上自衛隊艦艇一覧日本のアナウンサーなどでは、前者のスタイルの方が圧倒的に良いと考えます。…が、過去これを機械的に後者に揃えようとする方がいてリバート合戦になったこともありました。)--Honeplus会話2017年4月14日 (金) 22:56 (UTC)[返信]
あともう一点、前者のスタイルですと、冒頭部に必ず「XX国」「YY」についてのリンクを貼れるという単純なメリットがあります。--Honeplus会話2017年4月14日 (金) 23:00 (UTC)[返信]
コメント やはり個人的意見ですが、スリランカ関係記事の一覧では冒頭の一文がなくても利用者が困るとは思えません。また海上自衛隊艦艇一覧日本のアナウンサーではより詳しく書かれており、今回問題にされているケースとは異なるのではないでしょうか。--Hiroes会話2017年4月14日 (金) 23:40 (UTC)[返信]
コメント ナビゲーション・ポップアップ、wikidataのガジェットなどリード部分を利用した利用者としては具体的記述もあった方がいいように思います。困りはしませんが、スリランカ関係記事の一覧の場合、種別に分かれた一覧なのか、あいうえお順なのか書いてあってもいいように思います。 --Camillu87会話2017年4月15日 (土) 00:53 (UTC)[返信]
コメント 返信ありがとうございます。スリランカ関係記事の一覧では利用者が困ると思えないのは同意です。が、そうすると冒頭部が無くなってしまい、それはそれで記事として微妙かなと感じます…。あと、要る記事要らない記事の線引きも問題になる気がします。ただ要る記事だけで十分という主張にも納得できます。
(もっと多数の例が上がると、傾向が見えてくるかも?)--Honeplus会話2017年4月15日 (土) 12:12 (UTC)[返信]
コメント スリランカの場合、知識として国で場所がわかっていますが、セーシェル関係記事の一覧といった主題が既知でない場合には、「...は、インド洋西端にあるセーシェル共和国に関する記事の一覧」という補足がないと、辿っていかないとわからないということもあると思います。--Camillu87会話2017年4月15日 (土) 13:07 (UTC)[[返信]
コメント - 前者については『本項ではXX国のYYについて述べる。』という形式にしてしまえば同じ語句が循環しなくなりますがどうでしょうか。「スリランカ関係記事の一覧」については「スリランカに関係する記事の一覧について述べる」となり記事名と太字が変わってしまうので賛否両論かもしれませんが、「日本のアナウンサー」なら記事名ママでも違和感のない文面になります。--ButuCC+Mtp 2017年4月15日 (土) 13:38 (UTC)[返信]

コメント 過去の議論だと、Wikipedia‐ノート:スタイルマニュアル (導入部)/定義文の体言止めや別名表記#複合的記事名(子記事)において暗黙的に多用されてきている「○○では」やトートロジー定義文で少し議論がありますね。個人的には、自然な書き出しでなおかつ読者に情報を与えて興味を引くような一文から始まる、後者の書き方を好みます。機械的に前者に統一しようとするのは止めてほしいなあ。ただ、後者の書き方は、どう書けばいいというのが一概にはいえず、適切な後者のような書き出しを作るのは一捻り必要となり、ちょっと手間であり、編集者間で意見の相違が生まれやすいかもしれない、という欠点が考えられますね。海上自衛隊艦艇一覧のように記事の内容が記事名からは非自明なケースでは、前者的書き方も有効のようです。どっちかに統一というよりは、まずは、Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)に後者のような書き出しもあるよということを示すのが必要でしょうね。--Yapparina会話2017年4月15日 (土) 00:16 (UTC)[返信]

コメント あまりこだわらないので基本的にはどっちでもいいかなと思うのですが、モノクローナル抗体の命名法こうなったのは如何なものかと感じないでも無いです。基本的には後者にすべきと考えますね。--Karasunoko会話2017年4月15日 (土) 05:03 (UTC)[返信]

コメント 過去に議論があったという事で、あちらでの提案を同じWikipedia:スタイルマニュアル (導入部)に移しました。もう少し様子を見てコメントが付かない様ならコメント依頼も出そうと思います。--Hiroes会話2017年4月15日 (土) 13:04 (UTC)[返信]

コメント WP:LAYOUTには「できるだけ、記事名(ページ名)を最初の文の主語(主題)としてください。」と書いてますが,前者だと記事名じゃなくて記事そのものが主題になってて,それに気付くのに若干時間が必要だし,無駄でしかない繰り返しがあるしで,避けるべきだと思います(個人的には「○○では」系は絶対にやめてほしいと思っています).「本項では」とか「本項は」とかすれば誤読の余地が無いのでいいかなとは思いますが.基本的には後者だと思いますが,なんの記事か分かりづらくなっているケースもありますし,無理にそうするのもどうかと思います.新規作成 (利用者名) 会話2017年4月16日 (日) 03:04 (UTC)[返信]

コメント 「機械的にそろえようとする行動」というのは私の編集のことなのでしょうけど、相談者によって機械的に除去された定義と概要節を復帰させたに過ぎません。このような物言いは他人を貶めるものであり、非常に無礼です。相談者は、以前もここに虚偽の前提で議論の提起をしたことがあります。自分に都合のいいコメントを得るためなのか、自己の粗悪な編集を直された腹いせなのかわかりませんが、真に卑劣な態度です。
やはり、冒頭には主題(=記事名)の定義、固有名ではない説明的な記事名の場合は記事の定義が必要であると考えます。「興味を引くような一文」より前に、読者が自分の探している記事であるか否かを判断するための情報が必要でしょう。特にスマホ検索をする人にとっては、データ通信量が無駄に増えずに済みます。
後者の場合、後者派の人からも「なんの記事か分かりづらくなる」という懸念を示されてますが、そればかりではなく、不正確になったり、中立性が崩れる懸念もありますね。「 XX国の農業は、温暖湿潤気候に属しており、最も生産されているのはコメである...」は日本語としてもおかしいですが、それを大目に見るとしても、主題がどこにあるかわかりませんし、「温暖湿潤気候」や「最も生産されているのはコメ」が飛びぬけて重要な事項であるかのようになってしまいます。また、「モノクローナル抗体の命名法は商標登録されていない名称である一般名をモノクローナル抗体に割り当てるための命名体系である。」だと、「モノクローナル抗体の命名法」が固有名であるかのような誤解が生じますね。日本語版と英語版の間ですら定義が完全一致してないようなので、このような書き方には疑問を感じます。あまりいい文章とは言えませんが、「モノクローナル抗体の命名法では、商標登録されていない名称である一般名をモノクローナル抗体に割り当てるための命名体系について解説する」の方が正確性の観点から見ればマシかなと思います。
そもそも、ここで出されている文例の殆どに違和感があるのは、定義を書かなければならないということではなく、「記事名を第一文の主語として太字で書く」という決まりにあるように思えますね。「本項では~」だけでいいかとも思えます。しかし、検索の都合上必要なのかもしれません。--uaa会話2017年4月16日 (日) 17:39 (UTC)[返信]
後者にした場合の正確性に問題がある例としてもう一点、。英語版のen:Capital punishment in Japanでは、定義が「Capital punishment is a legal penalty in Japan..」となってますが、これもおかしいですよね。これでは”Capital punishment(死刑)”が日本独自の制度のようです。逐語的な繰り返しを無理に避けた結果でしょうね。--uaa会話2017年4月16日 (日) 18:08 (UTC)[返信]

個人的には「説明的な記事名かつ記事名以上の情報が『全く』ない定義」は不要だと考えます。こういったケースでは定義があったからといってそこから新たな情報が得られる訳ではありませんから、読者の判断の役にも立たないでしょう。こういったケースに限っては除外してもいいのではないでしょうか。
Yapparina さんが紹介されている過去の議論では、「en版では例外事項を設けているのでそれに倣ってはどうか」としたところで議論が止まっていますね。--Hiroes会話2017年4月16日 (日) 18:41 (UTC)[返信]
Capital punishment を全く知らない人が読むとそうなる可能性もあるか知りませんが,普通その心配はないのでは.新規作成 (利用者名) 会話2017年4月17日 (月) 04:51 (UTC)[返信]

コメント こちらが延びている為、Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)での提案を取り下げました。--Hiroes会話2017年4月16日 (日) 18:41 (UTC)[返信]

『「機械的にそろえようとする行動」というのは私の編集のことなのでしょうけど、相談者によって機械的に除去された定義と概要節を復帰させたに過ぎません。』というuaaさんの発言ですが、これは明らかに嘘です。例えばオランダの教育は初版にも翻訳元の英語版にも無理やり作った定義文など無く、自然な導入部があったのを強引に概要節を作製することでuaaさんが定義文だけの全く意味を持たない導入部に変えてしまわれました(特別:固定リンク/57842621|初版、uaaさんによる編集)。従ってuaaさんのむしろuaaさんの編集こそがスタイルマニュアルで明確に禁じられている「機械的に導入された定義と概要節」と呼ぶべきものです。そもそもこういった説明的記事の場合、項目名自体が定義そのものであり、わざわざ自己言及的な定義文をつくるほうがおかしな話です。そういった意味でトートロジー的で無意味な前者より情報を含んだ後者のほうがベターだと申しております。「〇〇の××」といった項目名なら〇〇と××をそれぞれリンク先で定義すれば十分でしょう。普通に考えて項目名だけで「読者が自分の探している記事である」かどうかは明らかです。ガイドラインの改訂を考えるなる定義文を絶対につくるという部分に対する例外規定を設けるのが第一です。それと、本題とは少し話がずれますが、いい加減概要節なるガラパゴス分化は辞めにしませんか?これを認めてしまうがために「定義文だけ書いてあとの要約は概要説に」、といった本来の「導入部は完全な記事であるべき」というガイドラインに完全に背く記事が量産されるように思います。特にスマホでの閲覧を考えるなら導入部に要約がないのは致命的であり、定義があるかないか以上に重大な問題です。--Karasunoko会話2017年4月16日 (日) 20:36 (UTC)[返信]

前者と後者では明らかに後者がよろしいと思います。時々あるのですが、半ばくらいまで読まないと何について語っているのかよくわからなかったりする、特にフィクション記事とかですね、本当にあるんですよ。まず読者の方々に「何を読んでいるのか」をはっきり認識して頂くと言う姿勢は重要です。ただしこれはその目的を完遂できればよいだけの話で、定型文や厳密な文例は余り好ましくは無く、どうすべきかを記すに留めるべきものですね。また概要についても、それが必要(あるのが自然)な場面は、まあKarasunoko氏が想像できるかできないかはさておき、あるんですよね。先述の通り、冒頭部で「何を読んでいるのか」を解って頂く必要があります。主題が大きなものですと、必然的にそれも大きくなります。読み進めなければわからないより、わかった上で読んで頂く方が好ましい。この場合サイズの都合から、軽い説明の「冒頭」と、より深く全体像をわかっていただく「概要」に分ける事には一定の意義が有ると思います。そもそも、「目次」が出るのは「冒頭」と「概要または本文」の間であり、冒頭が長くなりすぎてはいけません。冒頭の肥大化はまずいでしょう。目次は必要なもので、それが相当にスクロールさせなければ出て来ない記事は、普通に読み難い記事です。また、それでも冒頭は必要なもので、つまりサイズの都合上から「冒頭」「概要」(広義には概要も冒頭です)に分割することが適切であるケースも相応にあるはずです。かつて私が書いた記事に「如意ヶ嶽」がありますが、冒頭と概要はそんなこんなを全て考慮した上で記述しています。好みもあるでしょうが、仮にサイズが変わらないとしますと、「概要」節をそれなりに整形しつつ全て狭義の「冒頭」に収めてしまうのは不適切と考えます。試しに見て見ましたが(まあ昔書いたものなので・・・)、「メッサーシュミット Bf110」でも同じ事が言えると思います。ただし「五式戦闘機」程度なら当時の私は冒頭に収めきれると判断しています。「乳房再建」では非常に簡潔な「冒頭」となっています。ただしこの記事も、「概要」を「冒頭」に移植してしまうと、やはり目次までの距離が長すぎる感があります。本番の執筆開始までに大抵、ほとんどの資料はもう揃ってますから、それくらいの予測は付くのですね。結局記事の題材や、特に規模などにより、当然、ベストまたはベターな記述法は変わってくるわけです。すなわち冒頭と概要のバランス、概要の有無、各々の長さ、緻密さ。全てケースバイケースです。具体的にはその方が経験ある常識的な執筆者である場合、主執筆者の裁量に任せるところでしょう。故に十把一絡げに概要なんていらない!・・・と言う考え方には賛同できません。同時に、私もよくやるのですが、定義文だけの冒頭についてはそれでは不足と考えた場合、加筆が行われる場合があります。「ウィキペディアの記事は全て書きかけ!」と言う観点から考えますと、その時点で冒頭が定義文だけだったとしても、ただちに大きな問題と言うわけでは全くありません。ですが、「できるだけ早く、読者に何を読んでいるのか、全体像を掴ませろ」と言う点、これはおおよそにおいて正解でしょう。概要も広義には冒頭に含まれるとし、要はノリとしては結論から先に書く感じで、「冒頭または冒頭および概要でそれなりに完結している」ことを「推奨」する、辺りが落としどころと思います。強制/義務化は、特にまだあまり経験を積まれていない方による新規執筆について、それのハードルをあげるだけであり、かつ押しつける自警が多発すると予想され、益は無いでしょう。暇でかつ経験のある人が黙って直される分には良いのですが、jawpと言うところは先方の会話ページに、有無を言わさぬ論調で殴り込まれる方が決して少なくはありませんから。また、一応、「google検索でどう表示されるか」についても、検討するに越したことはありません。もちろんgoogleに合わせすぎて、読み難くなってしまっては本末転倒ですが。とかく、色々な側面から検討し思料し構成を考えていくべきもので、できれば「概要が必要派」「概要は不要派」などができない態勢が好ましい。全員が、「必要なら概要節を設けるが、不必要だと思うなら設けない」と言う考え方でことに当たれればそれがよろしいのではないかと存じます。--Hman会話2017年4月17日 (月) 10:26 (UTC)[返信]

  • 精読した訳ではないのでおおざっぱな意見でしかないのですが、Hmanさんの挙げていただいた具体例を読んだ結果、やはり概要なる節は基本的に置くべきでないと感じました。何故かと申しますと、本来導入部やスタイルマニュアルに記載されているところの概要節には記事の要約を記すべきと書かれており、記事本体に書かれている内容が抽出されてそこにあるべきな訳ですが、Hmanさんの示された三例はいずれもそれを満たしていません。すなわち、例えば如意ヶ嶽の概要節では如意ヶ嶽の地理的情報や語源などが記されていますが、これは以下の本文には全く出てこない、概要にしか出てこない情報であり、概要として成立していません。誤解していただきたくないのは、このような内容の節が不要というのではなく、概要という名前をこの節につけてしまわれることが問題だというところです。これが別の名前であれば特に問題はないでしょう。乳房再建についても同様です。概要にしか書かれていない情報があることが混乱の元です。また、メッサーシュミット Bf110については「概要・開発経緯」というのでなく「開発経緯」とだけしてしまうことに問題があると思えません。要するに、仮に概要節を設けなければならないほど導入部が肥大化するのであれば、それは本来導入部に含めるべきでない内容がそこに含まれているためであり、それを適切な節分けする場合に「概要」という名前を使うべきでないというのが私の意見です。--Karasunoko会話2017年4月17日 (月) 10:55 (UTC)[返信]
概要節が「記事本体に書かれている内容が抽出されてそこにあるべき」でなければならないとする根拠はどこにあるのですか?スタイルマニュアルには「要約は「概要」の節を作って書くのもいいでしょう」とありますが、「概要の節には要約しか書いてはならない」とは書いてません。ならば、導入部には「本文には全く出てこない情報」があっていいんですか?逆でしょう。本文に節を作るほどの記載量にはならないような事柄を記載できるのも概要節が存在する意義であると考えます。
今更概要節を止めるなど、大きな混乱を招くだけです。現に今でも「導入部の長さは30,000バイト以上の長い記事で3~5段落の長さ」などの規定に固執して機械的に概要節を取り払う人がいるのですから、安易に禁止すれば程度の低い自警が膨大な記事を破壊しまくるのは目に見えてます。そういう輩に適切な節分や節のタイトルを付けることなど出来るとは思えません。そこまでして概要節を禁じるメリットってあるんですか?--uaa会話2017年4月17日 (月) 12:58 (UTC)[返信]
とりあえずこれだけ指摘させていただきますが、『「導入部の長さは30,000バイト以上の長い記事で3~5段落の長さ」などの規定に固執して機械的に概要節を取り払う人がいる』というは私の感覚からすれば全くの逆で、実際に行われているのは『「単純に導入部の途中に見出しを挿入する」ことによって「概要」節を機械的に作る人がいる』です。uaaさんの編集がまさにそれにあたると言っております。そしてuaaさんのみならずこういった編集(参考1参考2)を行う「自警が膨大な記事を破壊しまくる」ために概要節なる節を許容することの弊害が大きいと主張しております。--Karasunoko会話2017年4月17日 (月) 13:16 (UTC)[返信]
本来の議題からそれるので、私もこちらの件については最後にしたいと思いますが、どう見てもこの版よりこの版この版よりこの版の方が見やすいです。私の感覚からすれば、いずれの記事もあなたの差し戻しによって、結果的に冒頭部分がごちゃごちゃ醜くなっただけです。元の方が簡潔で良くまとまっていると感じます。導入部に「日本での咬傷事故」とか対策を長々と書く必要があるんですかね?係留観察とか本文では触れてないし。それに、何れも機械的にされた概要消去を復帰させたまででしょう。--uaa会話2017年4月17日 (月) 22:30 (UTC)[返信]
少なくとも上記でuaa氏が示された2つのケースに関しては、私はuaa氏が適切であると判断された版を強く支持します。また極端な事を言えば、とどのつまりjawpの記事は情報量と質が同じであれば、単純に読者にとって見やすい・読み易いものが正義だと見てよろしい。小難しい理屈をこね回す必要はありません。方針文書やガイドラインをつっつき回す必要もありません。基本的には読者のための記事なんだと言うこの一点を最重要視して執筆者各位は執筆を行うべきです。もしそれが現行のルールに反するなら、敢えて一時的にルールを無視してよろしいでしょう。ただし、実際問題に合わせたルールの改訂についての準備を忘れてはいけません。本来ルールと実際の運用が異なるのは言う間でも無く好ましい状態ではありません。なお、主観と言うものが多く含まれる問題でございますから、基本的には、それがwikipediaの基本方針やその他法律・公序良俗などに反しない限り、多数派に合わせることを拒む理由はないでしょう。しかし私は基本的には、主執筆者や実際に執筆に関わっている方々によるノートでの議論によって「ケースバイケース」で判断されるべきものであると言う考えをお勧めしたいです。「十把一絡げ」って非常に乱暴で、故に邪悪です。そうは思いませんか?もうぶっちゃけて言えばスタイルマニュアルなど大体の指針であり、特にこれで不都合がないなら大体こんな感じでやるようにしてね、ってもんでしょう。もうそもそも、冒頭に思い切り「文章のスタイルよりも、記事の内容の方が大事であり、執筆者は当マニュアルで規定するスタイルに絶対に従わなければならないわけではありません。」って明記されていますし[1]。「Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)」でも、(必要なら別途)概要節作っていいよーって書いてあります。そして概要をどう書くかにについてはまぁできるだけ適切にやれ、それ以上の指示はありません。記事自体千差万別なんですから、そりゃ当たり前です。記事Aでは通用した書き方が記事Bでは通用しない場合が多々なんて、そりゃそうでしょう。そしてこれらについて、概要や冒頭の書き方を厳しく規定するような改訂は必要無いと考えます。ちょっと論調が木を見て森を見ずになっている感がございます。ボトムアップよりトップダウンの方がいいんじゃないですかねぇ・・・。ま、昔から概要必要派と不要派の確執はあるみたいですけどね。私はどちらかにすることにより見やすさが著しく損なわれるケースを除き、どちらでもいいと考えて居ますし、先にリンクで示しました通り、「ケースバイケースで」どちらの手法も使います。と申しますか、あらゆる手法を否定せずにやってきました。品質や生産性のあがるものなら何でも取り入れようとしていましたし、でないものは捨ててかかります。足下では無く前を向いてやっていました。--Hman会話2017年4月18日 (火) 00:33 (UTC)[返信]
私としましては「???」と言った感じです。何かを禁止するには、それが非常な害悪であるという事について、強力な全体合意が無いとお話にならないことは、これは当然のことと認識しております。記事の体裁が著しくよろしくない、これが前提であれば、当時のGA選考や、一部新記事賞や強化記事賞もあったと思いますが、これらの選考は不適切だったと言うことにもなりますから、遡っての見直しも必用となるでしょう。私の以前執筆した記事について、どれかを選び、ざっとで良いので、Karasunoko氏がお考えになる「理想的な記事」に改稿され、履歴継承を行いつつご自身のsandbox等に複写され、最善のパターン、またKarasunoko氏がお考えになる最悪のパターン、そして原状版。これらを並べて比較できる態勢を整えると、もしお考えが適切なのであれば、賛成意見は得られやすいものと思います(ライセンスやjawpの概念上、別に私が主執筆者である記事である必要などは無いのですが、人間どうしても遠慮と言うものがあるでしょうから、私についてはそれは不要ですよと言うことで)。方針改訂などでも「例文の提示」で実際に見せてみますよね。あれと同じ事です。--Hman会話2017年4月17日 (月) 20:02 (UTC)[返信]
これに関して思うのは、一部に過剰にビジュアルに注力されるケースがある所です。一例として、TOC部が大きくなってくると、導入部の文字数を削って帳尻を合わせようとするケースがあります。ですのでTOCが肥大していくと導入部は一行だけになってしまったりもします(TOC limitは邪道であるとのことです)。私の感覚では百科事典というものは、観賞用や展示用ではなく実用品である思っているので、そういうのはどうかなと感じます。--Soren Bradley会話2017年4月20日 (木) 11:36 (UTC)[返信]

その経緯はさておき、議論が主題とは直接関係ない方向に移っている様に思います。「記事冒頭に『完全に』自己言及でしかない『定義』は必要か」(若干絞りました)についてはどうお考えでしょうか。私はそのような定義は不要であり、ガイドラインにもそのように明記すべきと考えます。--Hiroes会話2017年4月17日 (月) 14:20 (UTC)[返信]

「記事冒頭に『完全に』自己言及でしかない『定義』は必要か」については不要と考えます。一方私もKarasunokoさんの意見を追認します。この問題は根深く、既存の導入部での記事全体の要約まとめを安易に「==概要==」に分離しようとする人々(とそれに起因する拡がり)による影響が少なからずあるように思われます。WP:LISTが草案レベルであることを踏まえると、ご提案をWP:LSガイドラインに加えることには意義がありますが、慣習だとして善意で現在も無意識に概要節を作っている人々、また変更を知らない(知らなかった)人々とのあいだでこの問題にぶち当たるたびに変更点を説いていくのは問題の根深さ的に相当骨が折れると思います(圧倒的に記事中の概要説の多さ+既存の概要節をみて踏襲していく人>>>>>>>>>>>>>>>新ガイドラインの認知度でしょうから)。--Gohki会話2017年4月17日 (月) 18:37 (UTC)[返信]
結局のところ、「懐深く」考えると良いと思います。私は「概要」節も広義の「冒頭」と考えております点を予め申し上げた上で、少数の議論により個々のケースによる吟味と言うものを廃した画一的なものを強要し指示の肥大化と参入障壁をあげる行為はまず慎みたいと申し上げます。どうしても必要でない部分で参入障壁を無駄に高くし続けると、しまいには誰も来てくれなくなりますから。Hiroes氏は「記事冒頭に『完全に』自己言及でしかない『定義』は必要か」との論で、冒頭/概要と言う、広義でいえば冒頭内での区切りと言うものですね、それを無くしてしまおうとお考えですか?以前の書き込みで申し上げた通り、分けた方が自然であるケースも当然あると考えるべきで、私は自然な感覚に従い、それなりに多くの新規記事・強化記事(賞を取ったものばかりではないですよ!よって数なんて自分でも全く把握していません)を書いて参りました。現在に至ってもその辺りの構成については、少なくとも問題とされるものではないと考えております。反面、もし、至極単純に、「記事冒頭に『完全に』自己言及でしかない『定義』のみが配置されていることは好ましく無いのではないか」と言うご意見でしたら、これは、少なく無いケースでYesと言えるのではないか、つまりもっとしっかり書くべきではないか、と言う私感を持ちます。もし概要節に細かく書かれていたとしても、一旦、目次で区切られてしまいますからね。しかしながら、記事全体の規模、題材と規模に異存する広義の冒頭部に配すべき内容、さらに執筆者の好み、閲覧者の好み、私が考えつくだけで以上の要素は少なくともあるわけですから、これを画一的に規定してしまうのには無理があると思います。この問題、「主観」は相当に大きいと思いますよ。--Hman会話2017年4月17日 (月) 20:02 (UTC)[返信]
Hmanさん 読みすぎです。私の思考回路はもっとシンプル(笑)です。冒頭/概要の区切りの有無については特に考えていません。冒頭と呼ぶことで誤解が起きるのであればなら出だしと言い換えます。この項の最初にあるような「完全に」自己言及な出だしでしか表せないなら「なくてもいい」んじゃないかと。今のガイドラインはそう読めないように思いますので、「こういった場合はなくてもいい」なる規定があった方がいいんじゃないかと。それだけです。 冒頭/概要の区切りの有無に踏み込むことで議論が停滞しているように思います。このケースに限らず、諸規定の変更が広く受け入れられるには時間も手間もかかるというのは Gohki さんのご指摘のとおりだと思いますので、なおさら出来る部分だけでも手を付けてはどうかと思う次第です。--Hiroes会話2017年4月18日 (火) 04:13 (UTC)[返信]
すいません、なんかその、このページ自体の議論が凄く拡がってしまっている感じで、そこでなんやかんや考えすぎた感が(笑)。「冒頭部が全く無いのに、全体的に見るとなんら問題無く、むしろ優れている記事」にお心当たりがございましたら、幾つかご紹介頂けるとよろしいかと存じます。やはり百聞はなんとやらでございますし、個々人の想像力がどちらを向いているのかも人それぞれで、いくつか具体例を見せてもらわないとピンとこないと言う部分もやはり・・・。--Hman会話2017年4月18日 (火) 07:03 (UTC)[返信]
先の返信では肝心な部分が抜けていて誤解を招いたようで申し訳ありません。私が気になっているのは「定義」の部分です。具体例でいうなら、最初に例に挙がっているフランスの鉄道の出だしは「記事の定義」とは呼べないと思いますが、ここに「フランスの鉄道ではフランスの鉄道について述べる。」などといった記述ぐらいしか書くべき事がないとしても定義文が必要かどうかという事になります。現在のjawikiガイドラインでは「なくてもよい」とは書かれていないように思いますので、過去の議論でも出ているようにenに倣って一文加えてはどうか、という話であります。恐らく起案者の意図もそういったシンプルな話だと思っています。--Hiroes会話2017年4月18日 (火) 08:02 (UTC)[返信]
コメント 追記 具体例にしてしまった事で「そこはこういう書き方も出来る」などの反論の余地もあろうかと思いますが、そちらは今は考えません。あくまでも「そういった書き方しか出来ない場合にも定義が必要かどうか」で考えて頂きたく思います。--Hiroes会話2017年4月18日 (火) 08:28 (UTC)[返信]
わかりきったものをわざわざ様式美の様に書かなくても特に問題は無い、しかしまあ別に書いても問題はない、どっちでもよかろう、これは解ります。ただし有った方がよいと判断した編集者による加筆修正は妨げない(としておかないと恐らく高頻度で編集合戦になります)。取り敢えずここまでで一区切りです。少なくとも「立項時の義務」とする強い必要性があると言う主張を、現時点では行うつもりはありません。良い冒頭が思い付かなかったら無しであげていいし、その場合はその後、何年後かはわかりませんが、思い付いた人が加筆すればいい。しかしなんでしょう、当該記事については何故かもの凄い違和感を感じます。うーん、「いきなり本文」である感とでも申しますか。もしかしたら私が永く執筆を続けていたが故であり、読者諸兄は別に気にならない可能性も、当然ございますことですし。とかく、ライトユーザーを含めた多くの方からのご意見を募ってみないことにはな、としか今のところは申し上げられない感じでしょうか。いやそのですね。「フランスの鉄道ではフランスの鉄道について述べる。」だけ書くなら不要だったとしても、ならもっとしっかり書けばいいじゃない!できるだけ!アタマでわかりやすく!!と、こういう考え方も。あーもう私ガチガチですねぇ。あーあとなんですか、無くてもいい候補としてあり得そうそうなのは「○○の登場人物一覧」とかですか。--Hman会話2017年4月18日 (火) 08:53 (UTC)[返信]
簡潔に纏めて頂いてありがとうございます。編集合戦の危惧にも同意ですが、加筆する側の動機のひとつとして現状のガイドラインがあるようにも思います。違和感については慣れの影響は無視できないと思います。私も最近感じますので(笑)。「ならもっとしっかり書けばいいじゃない」については正直今回の例では私も例示した後で同じように感じましたので、例が悪かったと思いつつ追記を入れさせていただいた次第です。また一覧系は結構ありそうに思えますね。ただ具体例を出そうとすると「xx(特定の出典)を除いた」が付きそうな例ばかり浮かんでなかなかいい例が出てきません。--Hiroes会話2017年4月18日 (火) 09:34 (UTC)[返信]
冒頭の定義は是非必要と思えるケースじゃなくても是非入れるべきだ!・・・について、まあちょっと考えてみたところ、説得力のありそうな理由は「大したコストじゃないんだから、各ページで冒頭くらいはそれなりに定型にしておいた方が読者が戸惑わないだろう」くらいでしょうか。勿論、繰り返しますが、「立項時に義務化」なんてレベルでも、強い推奨でもないと思います。書きたければ暇な誰かが加筆すればいい、かつ、それを取り除く行為は無価値であるため慎むように。これくらいのぼんやり感でいいと思うんですよね。指示が肥大化すると、立項のたびにGA選考かっ!って感じになりますよ、しまいには(苦笑 --Hman会話2017年4月18日 (火) 11:03 (UTC)[返信]
コメント(既に述べたことですが)本項形式なら循環が起きないので定義文(定義ではなく「この記事で何を解説するかの宣言」というべきか?)を添えても大して問題ない気がします。これで前者形式の循環を解消しつつ、後者形式でも記事名を冒頭に示す(検索上のメリット?)ことができますがどう思いますか? 
本項ではフランス鉄道について述べる。
フランスの鉄道輸送は、フランス国鉄(SNCF、Société Nationale des Chemins de fer français)がほぼ独占して運行し…
「XX国の農業」でも「○○の登場人物一覧」でも同じやり方ができます。概要云々に関しては上の例で言えば2段落目以降に相当する文をを節分離するか否かと言う話でしかないため、本件とは別に考えた方が良いと思います。冒頭文の書き方が記事名の自己言及になる事例として一覧系(「XXのYY」の「YY」に「一覧」が入る場合)もありますが、一覧系の場合はそもそも2段落目移行に続く文章がない場合がほとんどです(そのまま一覧や表に移行するため)。--ButuCC+Mtp 2017年4月18日 (火) 12:10 (UTC)[返信]
そうですね。「google検索で出て来た時にぱっと見で解りやすい」点が、定型的な定義文があることの利点の一つと申します。しかし逆に、「有る事によるデメリット」および「無い事のメリット」は存在するでしょうか。現時点ではちょっと私は思い付いていません。ただ、私は「どっちでもいい、ガイドラインはどちらも強要しない」が良いと思っておりまして。もし「有る事によるデメリット」が無いか非常に軽微なものでしたら、それを積極的に禁止する必要はまるでなく、「どちらでもいい」か「まあできればあった方が好ましいかな」に収まるのが自然と考えます。--Hman会話2017年4月18日 (火) 20:11 (UTC)[返信]
コメント ここで言う「定義」は「記事の定義」つまり「何を解説するか」ですから、本項形式は充分に定義であると思います。ほぼ同じ語が反復するよりは日本語としてよほどスマートですね。ただ記事名によってはそのまま文章にしづらい事もありますので、太字条項と併せて「こういった書き方もいいでしょう」的な例があってもいい気がします。あと一覧系はそれでもいらない気が個人的にはします。もちろん追記のない場合ですが。--Hiroes会話2017年4月19日 (水) 01:26 (UTC)[返信]
コメント 一応確認したいのですが,まだおかしな方向に議論を持っていく人がいるようですが,もともとの問題は「記事の定義」を書くかどうかではなく,それを奇妙な反復で書くかどうかですよね? 新規作成 (利用者名) 会話2017年4月19日 (水) 03:17 (UTC)[返信]
確かにそうなのですが、結局のところ「それ以外の書き方が見つからない場合にどうすべきか」についての記述が無い事がその状況を生んでいるのではないでしょうか。私としては「そういうときは反復を避け、こう書くといいでしょう」みたいな一文があれば、少しはマシになるのではないかと思います。私はいまのところ「本項」推しですが、その場合例えば海上自衛隊艦艇一覧みたいなケースで太字条項をどう扱うかなんかも検討しないといけませんね。--Hiroes会話2017年4月19日 (水) 23:11 (UTC)[返信]
──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────── 2文目は私も強くそう思います.(既に述べていますが)私も「本項」はよいと思います.1文目については,それもありますが,太字条項のせいもあるんじゃないかと思っています(なにがなんでも記事名を一字一句変えずに冒頭に入れなければならないと思っている人がいるように思います).「海上自衛隊艦艇一覧」も別に「本項」でできるんじゃないですかね.「本項は海上自衛隊艦艇一覧である。本項では、海上自衛隊が過去保有した、または現在保有する、または将来保有する予定の、未完成・計画中止を含めた歴代艦艇を一覧する。」(太字は略)として問題があるようには思いません.新規作成 (利用者名) 会話) 2017年4月20日 (木) 09:39 (UTC)--(下のEULEさんのコメントの繋がりが分かりにくくなるためインデントを調整しました。)--ButuCC 2017年4月21日 (金) 14:10 (UTC)[返信]
コメント - 現状、Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)#導入部(第1段落)の例にはここの議論で有効な場合があることが確認され、実際に用いられている「後者形式」や「本項形式」などが例示されていません(現状の例は似たようなものばかりで逆に省いても問題なさそうなのが結構ありますね…。その中でも『東洋思想での(みち)』は「必ずしも冒頭に記事名を太字で持ってくる必要はない」ことを示す好例だと思いますが)。この例示のバリエーションを増やせばこのガイドラインを見た人に対して「こういう書き方もあるんだ→どっちでもいい」という方向で理解してもらいやすいと思いますし、機械的な変更に対して反論しやすいです(例示が不足している現状では毎度ここで出てきたような話をかみ砕いて相手に話す必要が生じています)。
なお、定義文が無いとこういう事も起こり得ます(親子関係にある記事のうち「XX」(親)ありきの「XXのYY」(子)記事で時々起こる)。一方で、こういった関係の記事の場合は{{Pathnav}}によって記事名が示される(ことによって検索上のメリットはクリアできる)場合があるので、定義文を書くとしても「記事名を太字で書く」必要がかえってなくなる場合もあります(ポケモンの一覧 (1-51))。こういった事例も含め、現状のWikipedia:スタイルマニュアル (導入部)#導入部(第1段落)の例は一覧系や親子関係記事の事情を考慮しておらず、最初の話にある「用語の反復」といった特有の問題がカバーできない状態に陥っているのだと思います。--ButuCC+Mtp 2017年4月21日 (金) 14:10 (UTC)[返信]
音楽が死んだ日を見た時は、こういう書き方もありかと感嘆したんだけれども。--EULE会話2017年4月18日 (火) 14:55 (UTC)[返信]
あれ、何故でしょう。これは一目、違和感が少ない。乱暴に例えるなら、「○○は××である」を比較的長い文章で表現したかたちですか。もちろん、「『音楽が死んだ日』とは、1959年2月3日・・・」と言う良く有る形式でも何ら問題ありません。慣れた執筆者なら苦も無く書き換えられるはずです。結局「どっちでもいい」になってしまいましたが・・・。--Hman会話2017年4月18日 (火) 20:11 (UTC)[返信]
コメント 正直、こういう書き方には違和感バリバリです、、、作者は拘っているつもりかもしれないけど、こういう書き方は百科事典としてパッと見て混乱するので、できれば止めて頂きたいです、、、--Honeplus会話2017年4月18日 (火) 23:58 (UTC)[返信]
コメント 記事としてはあまり違和感を覚えませんでしたが、辞典に相応しい書き方かと言われればちょっと疑問ではありますね。--Hiroes会話2017年4月19日 (水) 01:26 (UTC)[返信]
コメント 確かに「こういう書き方もありか」とは思いましたが,記事名が出てくるのが遅すぎでしょう(英語版では第1段落2文目).新規作成 (利用者名) 会話2017年4月19日 (水) 03:17 (UTC)[返信]
コメント 以前に、海上交通安全法別表に掲げる航路で、トートロジー化していた冒頭文を「本項では、海上交通安全法別表に掲げる航路(かいじょうこうつうあんぜんほうべっぴょうにかかげるこうろ)について記述する。」という宣言文だけに簡略化する編集を行ったことがあります(日本語の場合、ふりがなを付ける都合上、どこかに「記事名そのもの」を入れるほかない、とは思います)。--Jkr2255 2017年4月21日 (金) 22:42 (UTC)[返信]
必ずしも本文に太字と読み仮名が必要とは限らないかと。日本語を母語とする成人が読むことを想定しているのならば、本文の日本語を読める人間がタイトルだけ読めないなどという奇妙な事態は普通ないでしょうし、どうしても読み仮名が必要とあらば日本語版独自に読み仮名のデータを入れるフィールドをwikiのシステム上に作る方が良いと思います。自動的にソートキーに変換して現行のアナクロなDEFAULTSORTの手動入力も不要にできませんかね。--荒巻モロゾフ会話2017年4月23日 (日) 06:31 (UTC)[返信]
ふりがなって、「海上交通安全法別表に掲げる航路(かいじょうこうつうあんぜんほうべっぴょうにかかげるこうろ)」のことですか?「ふりがなを付ける都合」が本当に不動のものか、考えてみるべきと思います。「アメリカ合衆国のカトリック(あめりかがっしゅうこくのかとりっく)」「フランスの歴史(ふらんすのれきし)」とかもそうですが、そもそも子記事系のケースは親記事にふりがながあるのですから原則ふりがななしでもいいのでは? 固有名詞や特別な定義のある用語はともかく、子記事の多くはそうじゃないですよね。必要に応じて単語(「歴史」とか「航路」とか)単位でリンクを貼ったり読みが難しい部分だけにルビをおけば済みます。 --210.149.254.82 2017年4月23日 (日) 10:17 (UTC)[返信]
なるほど、その視点ですね。ふりがなは有るに越したことは無いです。不要と仰る方もいらっしゃいますし、そして例えばカタカナ語など明らかに別にどうでもいいものもありますが、少なく無い場合でそれを必要とされる方もいらっしゃることは明らかです。仮にほんの1%でも読めない方がいらっしゃるのであれば、ふりがなを振っておくべきでしょう(他の記事のどこかに書いてあるとかそういうのはナシで)。冒頭の少々のふりがななど、仮に過剰であったとしても少なくとも実用上無害と申し上げてよい。そして当然jawpの読者は十分に教育を受け、十分な人生経験を積んだ「大人」と呼べる日本語ネィティブスピーカーだけに限るべきではありませんし、事実もそうではないと想定するべき(我々も他言語版を読んだりするじゃないですか、普通に)。「誰にでも、読めるし、わかる」は是非意識したい。となりますと、その内容が適切であることを前提に冒頭定義文の記述を「推奨」する、と言う運用の方がより良好な運用であると言う可能性は、ぐっと高まりますね。--Hman会話2017年4月23日 (日) 22:24 (UTC)[返信]
いくらふりがなが書かれていても情報源が確かでないと困りますね。検証可能でない情報を掲載するよりは何も書かない方がよいという指針もありますので。ウィキペディアンが考案した語句の場合、情報源を見つけるのは困難と思います。「べっぴょう」の例では何が出典でしょうか? --210.149.251.94 2017年4月24日 (月) 00:32 (UTC)[返信]
そうですね。情報源が必要なケースも確かにあります。私も実は・・・冒頭ではないのですが、記事を書いていて、「正式な」読み方が解らないけど取り敢えず漢字はそのまま写しておいた、って例は0じゃないですw 可能な限りの配慮は必要ですね(私は実際にふりがなに何度か出典をつけたこともありますよ。正確な回数は覚えていませんが)。もしそのジャンルの百科事典・辞書・入門書的なものがあれば、結構期待出来ると思いますけどネ。実は管轄するべき組織等の中で「正確に決めていない」って言うのもありまして(地誌で時々あります)、その場合には断り書きが必要でしょうね。ともあれ、それが正確なのであれば、或いは有力な読み方を幾つか並べるなど、ケースに応じて適切に対応しておけば問題は無いでしょう。jawp全体的に将来的には従来より精度を高めていくべきだ、これは誰も否定しませんでしょうね。まあ必要なケース、即ち例えば難解そうなもののよみがなに出典を付加して、怒るような人は、少なくとも十分に方針や運用の理念を把握した一線級の執筆者の皆様方の中には、いらっしゃらりませんでしょう。むしろ正確な情報が増えたと喜ぶところです。--Hman会話2017年4月24日 (月) 01:17 (UTC)[返信]
コメント横レス失礼します。以前に英語版を訳してこのようなものを書いていたので、ルール変更の叩き台としてどうぞお使いください。--荒巻モロゾフ会話2017年4月22日 (土) 14:15 (UTC)[返信]
コメント小生は幽霊記者ですが、私見をば。※「頭文」とは記事名から最初の節までの一連の文章のこと。導入部。
1.各ページに執筆者の主体性はなく、また文章的人格はウィキペディア財団にはないため、頭文にいきなり「本稿では」と置くことは相応しくない(卑近な例だが、履歴書の学歴・職歴に「本稿では、私個人の学歴・職歴を述べることにする」と書くことと同義であるように思う)。また「本」「稿」という文字は記事に著作人格権を有するかのような言葉であり、ひいては定義の寄せ集めの私物化にも見えると卑見いたします。即ちWikipediaの側で言葉を一意に定義してはならず、あくまで頭文は各方面で使われている用語の一般総意たるべきであると。亦た本来「本稿」とは何か大きな公理や一般常識、既に公開された論文等が前提にあり、その上で「本稿では、~~の~~における~~について述べる」という用法が正しく、いきなり「本稿から」から入るのは読者にその『大きな公理など(例文ではXX国の背景や地勢など)』を丸々押し付ける格好になると思われる。
2.ページのスタイルはWP:MOSにあるように「初の節が始まるまでに記事全体の要約が示され」るようにすべきとであり、即ち一般の研究論文における「概要」「序論」「はじめに」のように、記事の内容を簡潔に総括しつつ本文に繰り込まなくて良い程度の長さにすべきだと思われる。小生はかつて、頭文で概要に繰り込むべき説明を延々と続けたあとで、概要が数行しかないようなページに過去まみえたことがあったもので。上述「前者と後者では明らかに後者が~」では小生はHman氏・uaa氏派ですな。
3.ゆえに、頭文だけで「分かった気」にさせてはいけないと考えます。翻ってツリー元の「 XX国の農業は、温暖湿潤気候に属しており、最も生産されているのはコメである...」という文に至れば、まず「ここでは(小生の趣味で言えば「このページでは」)、WW大陸東方にあるXX国の農業について記述する。」的な文章にし、その後の「温暖湿潤気候に属しており、最も生産されているのはコメである」というのも概要以後に(できるかぎり分散して)書くべきだと思われる。つまり「温暖湿潤気候」はXX国特有のものでないので「XX国は隣国YYと同じくケッペンの気候区分における温暖湿潤気候(Cfa)に属し云々」など、「最も生産されているのはコメである」も(できれば項を分けた上で)「同国で行われた20AA-20BB年での農業生産高についての調査[1]から、XX国の農業で最も栽培が盛んな作物はコメである。」として、やがて来る卓越者への道筋たるべき文章にすべきだと思われる。
4.上の「音楽が死んだ日」は、言葉を極めるが小生的には論外となる。enの原文がそうであるとはいえ、これこそ頭文の下に"概要"として分けて書くべきことであり、そもそも事故の概要と音楽やミュージシャンの説明がごっちゃになっているため百科事典としてふさわしくないポエムになっている。これが許されると、例えば三島事件の頭文も「1970年(昭和45年)11月25日、作家として知られる三島由紀夫が自衛隊に演説をした後で割腹自殺を遂げた。」というような書き方が可能になり得る。従って、音楽が死んだ日の頭文は、私のスタイルで言わせてもらうと「『音楽が死んだ日』(The Day the Music Died)とは、1959年2月3日にアメリカ合衆国で起きたヘリ墜落事故の同国での通称である。3人のロックミュージシャンが墜落死し、後にシンガーソングライターのドン・マクリーンが楽曲「アメリカン・パイ」のなかでこの事故を「音楽が死んだ日」と歌い上げたためにこの名前が定着した。」とすべきだと思われる("通称である。"というのも個人的には気に入りませんが)。
5.ちなみに小生の"モノクローナル抗体の命名法"の第一頭文の案は「モノクローナル抗体の命名法とは、新たに作製され商標登録されていないモノクローナル抗体を、その標的抗原や抗体起源などによって命名する際の名称体系である。」でしょうかな。小生は生物学に対して不得手なので頭句を保存した上に右表と相互作用する文章になってしまいましたが。
ま、つまり立派な鍋に綴じ蓋を置くのが嫌ならば蓋を磨くことから始めようと具申します。また、本ページ冒頭の「そもそも語句XXが分からない方は~情報量ゼロの記載になっていると感じます。」はちと詭弁に属していると敢えて申し上げる。まず例えば「日本の農業」は(国体としての)日本と(農法や職業的概要や歴史等の総称としての)農業を単純に足した語ではなく、理解できないからといって他のページと重複する説明を長々と書いては本末転倒である。そもそも頭文は、特に複合語では単なる定義宣言としたほうがよい局面もあり、なればいっそ要約が難しい頭文をゼロ程度に削り落としさっさと概要に目を通させる…というのも一つのテクニックだと思われるが、いかがだろうか。力在領域会話2017年4月22日 (土) 20:35 (UTC)[返信]
コメント - 一言だけ。本項形式は「本稿」ではなく「本項」です。本項には「この項目」程度の意味しかないと思いますが、深読みすぎではないですか?--ButuCC+Mtp 2017年4月22日 (土) 20:56 (UTC)[返信]
ふりがなにせよ同語反復にせよ、害があるかどうか、よりも、上から数えて何番目に重要なものか、を考える方がよいです。何かを推奨するというのは、それ以外の全ての優先度を下げることに等しい。逆に言えば、他の事項の記述優先度を上げられるということが「無い事のメリット」です。PCを使う読者はもはや全アクセスの半分以下です。一定の量しか読めない状況(急いでいて時間がない、出先で見ていて画面が小さい)などを想定すれば、単なる繰り返しに近い記述を冒頭から追い出して、代わりに量あたりの内容を濃くすることは検討すべきでしょう。漢字の上に書く括弧書きでない(本来の)ふりがな/ルビであれば、場所を取らないのでまだ許容できます。モバイルだと小さすぎて読めない→モバイルのみ括弧書きにする、等となると振り出しに戻ってしまいますが。 --210.149.255.223 2017年5月1日 (月) 00:35 (UTC)[返信]