「普遍的価値」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 普遍的価値とは

2024-08-12

「美しい」という概念は、日常的な意味芸術哲学における意味で異なる側面があります。主な違いを以下に示します。

### 1. **日常的な「美しい」**

- **感覚的な快楽**: 日常的に「美しい」という言葉を使う際、人々は主に視覚的、聴覚的な快楽に基づいていることが多いです。たとえば、美しい風景、花、音楽などが挙げられます。これは、個人感覚や好みに依存やすく、比較主観的です。

- **直感的な反応**: 美しさは、しばしば瞬間的な直感感情的な反応として経験されます特に美的評価を深く考えたり分析したりすることなく、「美しい」と感じることが多いです。

- **普遍的基準の不在**: 日常的な美の概念には、普遍的基準がなく、何が美しいかは人それぞれです。

### 2. **芸術哲学における「美しい」**

- **哲学探究**: 芸術哲学で「美しい」とされるものは、単に感覚的な快楽にとどまらず、より深い哲学探究対象となります。美しさの本質普遍性、そしてその社会的文化的な意義について考察されます

- **形式と内容の関係**: 哲学的には、美はしばしば作品形式と内容、つまりその構造や秩序、調和に基づいて論じられます。例えば、ある芸術作品の美しさは、その要素がどのように組み合わさり、全体としてどのような意味感情を生み出すかに依存します。

- **普遍的価値の探求**: 芸術哲学では、美が単なる主観的感覚にとどまらず、ある程度の普遍性客観性を持ち得るかどうかが重要議論対象です。例えば、イマヌエル・カントは、美を感覚的な快楽のみに基づかない普遍的判断であると考えました。

- **美の批評評価**: 芸術哲学においては、美は批評的に評価されるべきものでもあります。これは、美的経験が単なる個人的な感覚ではなく、理性的評価批評を通じて共有され、理解されるべきであるという考え方に基づいています

### 3. **重要な違い**

- **深さと反省**: 日常的な美しさは、即座に感じられる感覚的な反応に基づくのに対し、芸術哲学的な美しさは、深い反省分析を通じて理解されることが多いです。後者は、感覚を超えた理性的理解社会的文化的背景の中での美の位置づけを重視します。

- **対象範囲**: 日常的な美は一般自然や人々が美しいと感じるもの限定されますが、芸術哲学では、美の対象は必ずしも「心地よい」もの限定されず、異様なもの不快ものにも美的価値が見出されることがあります

これらの違いを通じて、芸術哲学の「美しい」という概念は、単なる感覚快楽を超えて、深い哲学的探求と普遍的価値観の探求を含むものとなっています

2024-06-16

anond:20240613203515

追記)ユロックの母さんの記事面白かったので続きを書いた。

https://anond.hatelabo.jp/20240619014605

本文)

キャンセルカルチャー問題点は、「悪い・正しくない」と思う倫理が内発的なものではないことなんだろう。

どこかで知った聞きかじりの「教養」に発するものからキャンセルすることでなんとなく自分が「正しい側」にいることに内心満足してしまう。「正しい側」にいるというのは安全地帯なので、いくらでも無知な人を罵倒し、笑い飛ばせる。その教養は実際のところ、★のたくさんついたブコメかもしれない、その程度に知った教養でも安全地帯に入った感覚を得られる。

まり、「いーけないんだいけないんだー、センセにいってやろ」のアレと大差ない。

その程度の教養正義感で、MVを取り下げ、ミュージシャン謝罪に追い込む社会なわけだね。

かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的正義感情的正義区別し、自分のことでもないくせに感情的共感によって主語がでかくなるのが感情的正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのを思い出す。

もうひとつ思い出したのは、2年くらい前、

共感にあらがえ - 内田樹の研究室

のなかで、人権とかマルクス主義とか、外付けされた倫理は歯止めが効かず暴発する、ということを内田樹がいっていたこと。

増田へのレスなかに

コロンブスナポレオン他所に乗り込んでそこにいた猿を使役したり自分文化を教え込んだりする描写になんとも思わんのかお前はw

というのがあるね。

正直、なんとも思わないねというのが俺の感想だし、植民地主義への反省なんていっても、外付けの反省まり

俺の中では、このMVはたわいもなくみえている。そんな他愛のないもの批判したくなるほど自分のなかで植民地主義批判内面化されていないわ。

そんなことをいうと、すぐにいろいろな知識開陳して説教したくなるサヨクがぼうふらのようにわいてくるんだが。

しろMVのなかで、不快に思ったのはそこではなくて、ナポレオンなどの人物たちが「Monkey Attack」というビデオを鑑賞するシーン。負傷していまにも死にゆハチマキをした類人猿兵士を抱きかかえる類人猿兵士、その場面にビデオ鑑賞していた皆が涙する、という場面だが、このシーンは、旧日本軍兵士連想させられ、ビデオ鑑賞で感動ポルノを消費するという行動にはイラっとさせられた。

類人猿ベートーヴェン指導したり、人力車にひかせたりというのには何とも思わなかったのに、このシーンだけは嫌な気分にさせられた。

そう、まさに「つまり解釈余地があるんです。」という感じなんだな。モンキーアタックビデオへの不快感はあるものの、袋叩きにしてやり込めるほどのものではない。他愛もないMVだよ。

rna氏は、ネット上では一斉に右向け右で「文明的なコロンブスたちが野蛮な猿人たちに文明を伝え、教化し、啓蒙している」という構図が大勢を占めているようだが、そうは解釈できないと述べている。

Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」MV 問題、マジわけわかんねぇ (追記あり) - rna fragments


もっとも俺も若い頃、20年くらい前までは、人権歴史教科書通りに学んで、それを教養として広めていけば、外付けされた倫理共感を呼んで広まっていく、みたいに素朴に思っていた時期があった。

https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301

みたいなことを素で思っていたというか、それこそ20年前のはてな草創期の「何とかidさんの日記」にはそういうのがあふれていた時代、、はてなにははてサと言われる人たちが多かったのだろう、そういう人ともつながった。

しかし、いつしか違和感を覚えるようになった。特に歴史修正主義というドイツで使われた文脈言葉安易日本南京虐殺否定文脈で使うことが一般的になり始めたころ、はてサという存在が疎ましくなっていった。

俺の違和感の正体は、結局のところ、歴史文脈のなかで生まれ言葉には、その歴史に紐づいた反省があり、過去への抗いがあるはずなのに、いつしか教養」として普遍化するなかで、その歴史固有性が失われ、あたかハンディ批判ツールになり下がることだった。

村上春樹2009年、イスラエル文学賞を受賞したときはてサは一斉に授賞式に出席しようとする村上を引き留めようとし、攻撃した。出席することは共犯意味するとまで言った人もいた。そのとき村上氏は自身への批判を受け、それらの情景を正論原理主義といった。パレスチナの人たちとの現実の接点をもたずに、パレスチナだ、ガザだ、人権だと漠然と騒いでいる、ごく普通のひとたち(私たち)の”寄り添い”は本当に軽いものだ。共犯という言葉も軽い。イスラエルに赴いて「高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ」と現場で話をした村上春樹言葉のほうがよっぽど覚悟必要だ。それでも村上春樹攻撃する様子をみて、俺はだんだん嫌気がさして、ブログからフェイドアウトしていった。

追記2)なお歴史修正主義に関して、以下のブコメが目に留まった。

???/ 外付けの倫理の話なのに2行目で教養の話になってるのはなに。/ (歴史)修正主義という言葉は50年以上前からドイツ関係なく使われてる。 - tick2tack のブックマーク / はてなブックマーク

tick2tack ???/ 外付けの倫理の話なのに2行目で教養の話になってるのはなに。/ (歴史)修正主義という言葉は50年以上前からドイツ関係なく使われてる。

すまんが、ズレてるぞお前さん。こういうのってさ、ちょっとでもファクトチェックしてもらう手間を惜しまなければわかることなんだよ。ドイツで生まれ修正主義はその後、ソ連中国などの共産主義社会で使われていった。イデオロギー的な対立が強い国では、ある視点政策に「修正主義者」というレッテルを貼ることで、それを委縮させることを狙ったわけだ。

まり信奉するイデオロギーから逸脱した奴を侮辱して叩く、こん棒として便利に使われるようになっていった、というのがお前さんのいう「50年以上前からドイツ関係なく使われてる」の実態からな。それが90年代後半、新しい教科書問題以降、日本で使われ始め、00年代半ばには定着した、というのが俺の理解。完全にこん棒化した、っていうのが歴史修正主義の使われ方の変遷だ。「相手に対する敵意と侮蔑」そして「俺たちが正しい」以外なにも読み取れない用語になり果ててるわけ。そりゃwikipedia書き換え合戦になるわな。だから俺はこの用語が嫌いなんだよな。

(/追記2)

お前、そんなこともわからないのか、そんなことも知らないのか、といって得意げに歴史知識開陳する態度。

てめえだって大して現実味のないことに対して義憤を抱いてるにすぎないくせに、この尊大な態度。

サヨクに対する嫌悪感は、ここに尽きる。キャンセルカルチャーは、無力なサヨクが得意げに知識開陳して自己満足する場になってるんだよ。


言葉の軽さはどこからくるのか。ヒントになるのは、前述の内田樹文章

そのなかで対談相手永井陽右氏は次のようにいう。

永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います大学1、2年の頃、大学平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。

じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います

「これは問題だ!」と深く自分のこととして考えもせずに簡単にいえてしまう、ここにこそ問題がある。

そういう義憤の正体って何だろう。

最近朝日新聞人生相談に回答した野沢直子に対して、それを朝日新聞記者コメントともに、冷笑と受け取って批判している記事があった。

[B! 報道] 読者を小馬鹿にする記者の態度にビックリ…野沢直子(61)の「悩み相談」騒動に見る“朝日新聞の冷笑主義” | 文春オンライン

元の人生相談とその回答はこちら。

https://digital.asahi.com/articles/ASS5K30WGS5KUCVL02MM.html?ptoken=01J0FYBDAZQF5YH5MPNMCJH3QA

不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」とかいう50代の男性相談

個人は、野沢直子の回答の感覚に近い(あ、俺はトランプ支持者じゃないけれどね)。現地に行ってみろと。行けば当事者意識を持てるから

これは冷笑でもなんでもない。正直、野沢直子の回答を冷笑と捉える文春の批判のほうが今の時代の病を表現していると思った。

新聞で得た世界出来事いか正義言葉で嘆いても、その切実さは現場の人の感覚とは何も通じ合っていないかもしれない。

現場にくると世界は反対側からみえることもある。

かつて、北アフリカスーダンで、ダルフール紛争と呼ばれる、政府系の集団による虐殺国際問題となったことがある。

日本ブロガーも反応し、かつてFinalvent氏がこの知名度の低いこの問題を何度も取り上げ、意識を高めようとするべく、記事をお書きになられていた。

最初は、自分の啓発もかねて弁当氏の言説に注目していたのだが、しかし、その後、私自身が北アフリカ地域仕事上関与するようになってからスーダン人とも仕事をしたし数多く知り合いになった。自分なりに関心をもって現地で情報を集めてみると、国際的に展開されているセーブダルフールキャンペーンは次第に異なる運動に映じるようになっていった。

それは当時のバシール大統領断罪をはじめ、現地武装組織悪業を過剰に喧伝する国際NGO特にアメリカNGOキャンペーンのやり方に対する違和感だった。紛争実態はもう終わっているにも関わらず紛争継続しているかのような言説が多く、過剰かつ単純な演出によって集められた資金は、NGO広告費に回っているという話まで聞いた。

正しい、とみんなに思い込まされていることでも、プロパガンダが功を奏しているだけかもしれないということだ。

弁当氏がその後、一貫してスーダンに注目していたかどうかは知らないが、やがて同氏の記事の傾向が変わり、国際問題にはほとんど言及されなくなっていった。

今、現在スーダンの置かれている状況はというと、2023年に始まった国軍準軍事組織「迅速支援部隊(RSF)」による内戦により、ダルフール紛争の比ではない、深刻な国内避難民が発生している。2023年末時点で国内避難民が905万2822人。これはスーダン人口の2割に相当。2003年の世界最悪レベルの人道危機と言われたダルフール紛争ときですら国内避難民は100~200万人というオーダーだったので、それをはるかにしのぐ難民が発生している今の状況がいか危機的かがわかる。

しかし、俺は思う。当時、弁当氏のスーダン記事を読み、義憤を抱いた人の何割くらいが、現在進行形の危機を憂いているだろうかと。エジプトトルコスーダン国軍支援アラブ首長国連邦はRSF支援、このように中東の中堅国らは、自分たちに好意的顧客武装させながらも、和平を口にする、いわば代理戦争様相を呈している。





ただ、一方で、外付けの教養には意味がない、とは思わない。しかし、植民地主義歴史を知るとか、外付けの倫理いか理解しているかという意味ではない。

普遍的な価値として、人権を外付け実装してきた日本である自分自身いかに受容してきたのか、それを踏まえて自分の生きる社会をどうしたいのかを知ること。

そのルール規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要があると思っている。

表現の自由ひとつとってもそう。表現の自由って大切じゃないか?と少しでも思ったら、それを所与の普遍価値から、と思考停止しないでよくよく考えてもらいたい。

なぜアメリカ判事歴史的な判決のなかで、空気が濁っているほうが社会健全だといったのか。なぜフランスでは神を冒涜することが権利なのか。

なぜドイツではホロコースト否定表現の自由に当たらないのか。日本公共の福祉解釈としてそれらをどのように受容したのか。表現の自由が失われると何が恐ろしいのか、それはそれぞれの社会文脈がある。少なくとも自分社会ではそれは何なのか、それを知ること、それこそが教養というものだと思っているし、理性的共感というものだと思う。

少なくとも俺が思うに、日本社会においては、冒頭のケシカラニズムが政府にとって都合よく操れる心情だろう。

表現の自由が失われることによって立ち現れる社会では、こういう感情的正義ますます膨れ上がるだろう。

表現の自由が失われることによって立ち現れる社会は、「これが正義だ!」とみせられるとすぐに無教養な人々を煽り立てることでき、簡単プロパガンダ誘導することのできる、政府にとって都合の良い社会ということになろうかね。

MV叩いて知識開陳してマウントとってるサヨクもそれで満足ですかね。まあそういう奴はそういう時代がくれば、アカ狩りで共産党員不倫していたことをネタ糾弾しているかもしれないし、体制寄りになってるかもしれないけどね。本格的な右派政党が台頭したらそいつらを味方につけるだろう。不謹慎厨の本質正義の中身を大して気にしてないことだ。日本中が沖縄を踏みつけにしても気にしないが、よその国の自分とさして関わりのない先住民のことは気に掛けるふりができる。

世界中、世の中でいろいろと深刻で理不尽なことが起きているなか、そういう諸々には無関心で当事者意識もないくせに、「教養ある人」が突然ポリコレし始め、他愛もないMV植民地主義的な傾向にかみついて、そうだそうだとみんなして一斉に同調した結果、MVの発表取り下げに至る、という構図は学級会のつるし上げそのものだ。

サヨク知識マウントできて満足だし、日ごろのストレス発散になったことだろう。

朝日新聞人生相談をした「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」という50代の男性も、MVをぼこぼこに叩いて満足するくちかもしれない。新聞を読んで中途半端ポリコレ意識をもてあましている、という輩に対する処方箋としては、野沢直子の回答はこれ以上ない的を射たものだと思った。

2024-01-27

anond:20240127051731

ミス日本は、様々な人種的起源を持つ人々が暮らすこの日本社会を、より良い方向に促していくことを目的にしている→https://www.missnippon.jp/about/

基本的人権擁護という普遍的価値観に基づいて、私たちの暮らす今日日本社会におけるダイバーシティインクルージョン観点で、美とは何かを考えられないのであれば、ミス日本普遍的価値観と対立する反社会的活動と言うべきだと思う

グローバリズムの中での西欧中心的な容姿的美しか肯定的評価しないのであれば、ステレオタイプ評価基準として批判すべきだけれども、今日日本に暮らす私たちは、コーカソイドネグロイドモンゴロイドなどの様々な人種的起源を持っているので、ルッキズム観点では個々人の各々に固有な美を見出すべきだし、それにも増して社会前進させる価値明日日本社会における目指すべき価値見出し提案することにしかミス日本価値はないでしょう

その観点で、コーカソイド起源容姿が強く表れていることを以てリジェクトするのは、今日日本社会における価値観に反する明確な人種差別軽蔑すべき反社会的態度だと思うし、今日及び明日日本社会における真・善・美を見出そうとする挑戦とは逆行する脳停止的態度だと思う

とはいえそもそもの前提としては、人間を並べて品評するという態度が傲慢だし醜悪な態度だと思うので、ミス日本に携わっている人の良識には疑問を覚える

その中で、ウクライナ出身今日日本社会で暮らす方を選んだ事務局の態度はベターな態度だと思う

2023-09-25

anond:20230925124814

恋愛的に」ってなんでそれを普遍的価値観だと思ってんだろう?

2023-04-09

お笑いが右に行っているということは別にないがそれはそれとして右の言説のほうが面白い

なぜ「お笑い」は右へ行くのか

https://anond.hatelabo.jp/20230408014727

これに関しては自分にも「たぶんこうなんじゃないかな」という予想はあるが、この増田とはわりと根本的と言っていいところから認識に違いがありブコメに収め切るのはしんどいので増田に書く。

まず第一に、お笑いが右に行っているという認識自体疑問符が付く。実際、吉本維新距離がかなり近い(元増田では吉本自民党とべったりと書かれているが、これは自民党内でも特に維新に近しい安倍晋三菅義偉トップだったゆえにそう見えただけで、直接距離が近いのは自民ではなく維新だろう)ものの、これに関しては右と左で語るよりも大阪東京で語ったほうがいいように思える。要するに、維新は「大阪」というアイデンティティに訴えることで大阪において盤石の支持基盤を獲得しているし、大阪吉本芸人たちもこの大阪アイデンティティ呼応している。

対して、この大阪アイデンティティを離れてもお笑い界全体が右傾化しているのかというと、自分感覚としては別にそんなことはないんじゃないかと感じている。そもそも大半の芸人炎上リスクのある政治的話題に首を突っ込みたがらないし、元増田ブコメでいくつも指摘があったように左派立場を表明している芸人複数存在する。ほんこん積極的右派発言を繰り返すのが他の芸人から強く支持されているという様子もあまり見られない(むしろ白眼視されている感すらある)。

ではなぜお笑いが右に行っているという認識が発生するのか。ひとつには前述した吉本維新距離の近さがあると考えられる。別の理由としては自分と全く違う意見は印象に残りやすいというのも挙げられる。なぜお笑いは右へ行くのかという疑問を呈したのは坂本龍一だが、左派である坂本龍一からすると芸人左派発言をしていてもまるで気にならないが、芸人右派発言は強く印象に残ったのではないか右派発言をしたのが松本人志のようなお笑い界の代表的人物場合、実際のお笑い界全体の傾向とは関係なく全体が右に寄っているように見えてしまうというのもあるかもしれない。

ただ、ここまで書いておいてなんだが、お笑いが全く右に行っていないかというとそうでもないかもなとは思っている。正確には、お笑いが抱える本質的特徴ゆえに特別お笑いが右に行っているということはないだろうとは思っているものの、世間並みに右に行ってはいるだろうなとは思っている。

元々ノンポリや無関心層だったのにあっという間に右に行ってしまうことが近年多く観察されるケースが存在する。それは、定年退職等で時間に余裕ができた結果インターネットに触れる時間が増えた高齢者であるYoutubeオススメされる中から興味を引く動画を辿っていくと、やがて虎ノ門ニュースやその他ネトウヨ向け動画に行き着く。そして、免疫のない高齢者はどっぷりとハマってしまう。

当然お笑い界にも同じようにネトウヨにハマる人物は出てくる。その代表例がほんこんなのだろう。

ここで疑問として浮上するのが、なぜネット政治にハマると決まってネトウヨになりがちなのかということだ。なぜYoutube政治動画まとめブログ政治エントリネトウヨ向けばかりなのかに言い換えてもいい。

自分はこれを面白さの差だと考えている。左の言説はつまらない。対して右の言説は面白い。

元増田に「文化価値観道徳の面では左派が強くなっており権力者であるとあるが、権力という言葉の使い方が比喩的すぎるという点を除けばそう外した認識ではないだろう。現代の(国際)社会平和自由平等人権、といった普遍的価値尊重する方向性へと進歩を遂げてきた。だから今では奴隷制否定されるし、女性貧乏人にも当然に選挙権があるのである。我々が部外者であるにも関わらずロシアウクライナ侵攻や中国ウイグルチベットといった少数民族への迫害非難できるのも現代社会普遍的価値尊重するからだ。もしもその前提がなければ、中国少数民族迫害の件であれこれ言うのは内政干渉ということになってしまう。

一時的な揺り戻しこそあれど一貫して普遍的価値尊重する方向へと進歩を遂げてきたのが人類歴史であり、そして普遍的価値尊重を中核的価値観とするのが左派である。そうなるとどうなるか。左派の言説はただの常識的なお説教になってしまうのだ。

社会立場の高いところ、つまり大新聞地上波テレビなどの既存マスコミであれば常識的であることはむしろ好ましい。しかし、とにかくネット再生数や閲覧数を稼ぐということを目指す上では、つまらないものゴミだ。

その点、右派というかネトウヨの言説は素晴らしい。

よく小説宣伝文句に「最後にすべてがひっくり返る」だのなんだのといったものがあるが、ネトウヨ言説にはコペルニクス的転回というかパラダイムシフトというか、そういった類の面白さに満ちている。

例えば、「これまでの常識日本太平洋戦争朝鮮半島侵略した加害者である」に対して「真実韓国捏造された被害解決済み問題蒸し返し続けて日本たかっている」が提示されるというのは、従来の加害ー被害関係性が正反対に逆転するものであり、目が覚めるような面白さがある。自分子どもの頃オカルト番組の「実はアポロは月に行っていない!」という内容を見てワクワク心躍らせていたが、それに通ずるものがあると言っていいだろう。

しかもこれは単に面白いだけではない。ネトウヨ言説においてほぼ必ず語られるのが既存マスコミ教科書教師への批判だ。ネトウヨにハマれば、「世間の連中はマスコミ教科書洗脳されて間違った常識を信じ込んでいるが、自分真実を知っている」という圧倒的情報強者感覚を得ることができるのだ。これは実に気持ちがいい。専門家アカウント突撃して「もっと勉強してください」とか言ってしまえるほどのものすごい自己肯定感を得られる。

左派言説だと「マイノリティは困っていてマジョリティ配慮すべき」というマジョリティとしてはいささか居心地の悪い認識が語られるのに対し、ネトウヨ言説なら上記のひっくり返しを発動して「マイノリティマイノリティ特権をゴリ押ししてくるのでマジョリティである我々はそれに抵抗しなければならない」という具合にむしろマジョリティこそが被害であると言ってくれるというのもいい。自分加害者側にいるように言われるよりも被害者側にいるように言われた方が誰だって気分がいい。

以上のように、ネトウヨ言説は面白いし気持ちいい。対して左派言説はつまらないし自分が責められてるような居心地の悪さすらある。

インターネットという、正しさや妥当さという基準がまともに機能せず、どれだけ多くの人間に受け入れられたかという数字こそが重要な真に「民主的」な空間において、どちらがより良いものなのかは火を見るより明らかであろう。

なので、インターネット大衆化した現代において世間はいくらか右に行くし、お笑い界の芸人たちも特別人間ではなく世間のひとりひとりである以上、お笑いいくらか右に行くことになる。

お笑いとはこういうものからお笑いは右に行くんだ!」というふうに考えるよりも、このように考えた方が実態に近いのではないかなと自分は考えている。

2022-09-07

安倍晋三元首相の 「ビデオメッセージ」 全文書き起こし

ご出席の皆様。

日本国、前内閣総理大臣安倍晋三です。

UPFの主催のもと、より良い世界実現のための対話と諸問題平和解決のために、およそ150か国の国家首脳、国会議員宗教指導者が集う希望前進大会で、世界平和を共に牽引してきた盟友のトランプ大統領とともに演説する機会をいただいたことを光栄に思います

特に、この度出帆した「シンクタンク2022」の果たす役割は大きなものがあると期待しております

こんにちに至るまで、UPFとともに、世界各地の紛争解決、とりわけ、朝鮮半島平和統一に向けて、努力されてきた韓鶴子総裁をはじめ皆様に敬意を表します。

さて、いまだ終息の見えないコロナ禍のなかではありますが、特別歴史的意味を持つこととなった東京オリンピックパラリンピック大会を、多くの感動とともに無事閉幕することができました。ご支援いただいた世界中の人々に感謝したいと思います

史上初の一年延期、選手村以外外出禁止、無観客等、数々の困難を越え開催できたアスリートの姿は、世界中の人々に勇気と感動を与え、未来へのあかりをともすことができたと思います。そして、イデオロギー宗教民族国家人種の違いを越えて感動を共有できたことは、世界中の人々が人間としての絆を再認識する契機となったと信じます

コロナ禍に覆われる世界で、不安が人々の心を覆いつつあります

全体主義国家民主主義国家の優位性が比較される異常事態となっております

人間としての絆は強制されて作られるべきではありません、感動と共感自発的ものでなければありません。人と人との絆は、自由民主主義原則によって支えられなければならないと信じます

一部の国が、全体主義覇権主義国家が、力による現状変更を行おうとする策動を阻止しなければなりません。

私は自由で開かれたインド太平洋の実現を継続的に訴え続けました。そして今や、米国戦略となり、欧州を含めた世界戦略となりました。

自由で開かれたインド太平洋戦略にとって、台湾海峡平和と安定の維持は必須要件です。日本米国台湾韓国など、自由民主主義価値を共有する国々のさらなる結束が求められています

UPFの平和ビジョンにおいて、家庭の価値を強調する点を高く評価いたします。

世界人権宣言にあるように、家庭は、社会自然かつ基礎的集団単位としての普遍的価値をもっております。偏った価値観を、社会革命運動として展開する動きに警戒しましょう。

つの時代も、理想に向かう情熱歴史を動かしてきました。理想の前には、常に壁があります。よって、戦いがあるのです。情熱をもって戦う人が歴史を動かしてきました。

自由民主主義を共有する国々の団結、台湾海峡平和と安定の維持、そして、朝鮮半島平和統一の実現を成し遂げるためには、とてつもない情熱を持った人々によるリーダーシップ必要です。この希望前進大会が、大きな力を与えてくれると確信いたします。

ありがとうございました。

2021年9月12日

7th Rally of Hope神統韓国のためのTHINK TANK 2022 希望前進大会

安倍晋三首相基調講演

出典

UPF公式サイトより

7th Rally of Hope - World Leaders Renew Call for Peace

https://www.upf.org/conferences-2/412-rally-of-hope/9738-world-leaders-renew-call-for-peace-on-the-korean-peninsula

https://vimeo.com/620560734

文字起こしには次の出どころ不明日本語字幕付きYoutube動画を参考にしました。

https://www.youtube.com/watch?v=qtzkP2Pi9tY

これは何か

安倍元首相銃撃事件の、犯行動機の一因と言われている、安倍氏統一教会系団体に向けて送った「ビデオメッセージ」をテキストに起こしたものです。

なぜこんなものはてな匿名ダイアリー投稿たか

ひょんなことから安倍さんビデオメッセージ動画Youtubeで見たのですが、思いのほかシッカリと書かれたスピーチだった(きっとスピーチライター使ってる)ので、テキスト化された全文がネットにあってもいいのに、と思ったからです。

(書き起こしたあとでhttps://note.com/makeheavenlab/n/n3cabd07f7dc0 みつけてしまいましたが、なんか段落が読みづらい)


著作権フリーの「政治上演説」なので自由コピペして使ってください。

2022-08-15

共感にあらがえ - 内田樹の研究室を読んで

これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。

ただ、内田が、

感情の器」って、あくまでも個人的身体条件のようなものから

というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。

たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミス道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会規範構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。

そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。

家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。

アレックス・カー20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。

おりしも建設省代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代

アメリカの7倍のコンクリートを使って日本山河コンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。

その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。

「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。


A・カーは、フェアプレイ精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者トップ黒海に豪奢な別荘を保有し、人民実質的農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。

「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司説教ブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖

最近、想起するのはやはり旧統一教会家族価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族崩壊している、といった、「おまゆう問題崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするとき動機付けメカニズムなのだ

内田永井議論テーマひとつである人権平等。あたか普遍的原理についても、

それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。

アメリカ建国者の一人、トーマスジェファーソン人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。

これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。

どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質人民に備わっていると信じて建国者デモクラシー設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権矛盾が、南北戦争北軍正当性を決定的にする。

内田議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要キーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。

自分でうまく整理がつかなかった。内田はいう。

「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。

これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係いかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。

内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。

まず外付けの倫理から。どのように受容されてきたか

舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後憲法のものアメリカ経験に基づいたものだ。

しかし、日本人権教育は、残念なことに、人権普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。

戦後人権を外付け実装してきた日本は、そのルール規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。

現在、旧統一教会問題話題の、国家宗教というテーマにしてもそうだ。

政教分離キーワードとなるのは、恐怖から解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西課題だ。宗教いかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴ勝利した古代ローマ

そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要再確認された。それが言論の自由関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場比喩が生まれる背景ともなった。

他方、旧世界フランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会権威苛烈弾圧が恐怖であった。だから公共空間合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランス言論の自由は、その意味カトリック否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したこと歴史的な背景は深い。

このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。

それは、実は国によって微妙コンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的価値なら、なぜ何千年も克服できなかったか意味を問うというか。

しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後日本裁判所も含めて。

でも、それこそが日本人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。


その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。

内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは自分の国や自分家族自分自身の歴史だと俺は思う。

自分自分先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理けが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本アジア欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。

歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。

自分理想とするもの現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。

自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。

ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要キーになるし、国家宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米経験教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決行政戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料支出したこと違憲とした歴史的判決で、戦争経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。

しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通体験共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代

50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。

「あの頃は」という共通過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。

まり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。

それが、失われ、外付けの価値観だけがカラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。

永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代

「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。

と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。

また、日本憲法に組み込まれ歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。

高度成長期に「あの頃」といえば戦争時代だった。

それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、

視聴者からは、おしん私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。

しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ

しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争記憶との関連が薄まった。当然、日本憲法リアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。

しかし、いずれにしても過去記憶憲法規範が直接に結び付かない、その世代経験、そこに、永井紛争国の辺境の地を自分テーマに選んだヒントがあるように思えてならない。

紛争リアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生ときに知った人権、そして憲法価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。

しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。

永井氏が、内田氏との対話のなかで

私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこから自分母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親単身赴任でしたし。

といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。

全然人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。

動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的ロールモデルとは限らないのだ。

この体験辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。


ともあれアレックス・カー面白い

読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。

A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.

Dogs and Demons, 2002, A

2022-07-12

2021年9月12日THINK TANK 2022 希望前進大会」での 安倍晋三 による基調演説の書き起こし

※司会部分は日本語同時通訳の書き起こし

〜直前はドナルドトランプによる演説

[司会]

続きまして2番目の基調演説は第90代第96代第97代第98代日本内閣総理大臣歴任された安倍晋三総理担当してくださいます安倍晋三総理衆議院を9期務められ自由民主党第38代幹事長、第21代第25代自民党総裁、そして90代96代97代98代内閣総理大臣歴任され日本憲政史上最も長い政権を率いられ現在日本代表する政治指導者あられます

時に第二次政権を約7年8ヶ月間 素晴らしい金融緩和成長戦略を中心としたアベノミクスとして知られた経済政策を推進され経済社会の安定を寄与すると共に価値観外交に基づく自由で開かれたインド太平洋政略 TPP環太平洋パートナーシップ協定を主導されることによって自由基本的人権 法による支配等の価値観を共有する民主主義国際社会発展において日本役割を果たす大きな寄与をされました。

またおじ岸信介総理、そしておじさんであられ佐藤栄作総理1965年韓日日韓国交正常化指導された日本代表する政治指導者あられ、また実のお父さんである安倍晋太郎先生朝鮮半島朝鮮専門家として大変有名な方であられました。

韓半島朝鮮半島平和統一太平洋平和文明を実現しようとする 韓鶴子総裁 UPF THINK TANK 2022 の趣旨積極的に支持してくださり本日基調演説担当してくださることになりました。皆さま 安倍晋三総理を大きな拍手でお迎えください。[拍手]

〜ここから安倍晋三による録画動画メッセージ

ご出席の皆様、日本国前内閣総理内閣大臣安倍晋三です。UPFの主催のもと、よりよい世界実現のための対話と諸問題平和解決のために、およそ150ヶ国の国家首脳、国会議員宗教指導者が集う希望前進大会で、世界平和を共に牽引してきた盟友のトランプ大統領と共に演説する機会をいただいたことを光栄に思います

特にこの度出帆したTHINK TANK 2022の果たす役割は大きなものがあると理解しております今日に至るまでUPFと共に世界各地の紛争解決、とりわけ朝鮮半島平和統一に向けて努力されてきた韓鶴子総裁を始め、皆様に敬意を表します。

さて、いまだ収束の見えないコロナ禍の中ではありますが、特別歴史的意味を持つこととなった東京オリンピックパラリンピック大会を多くの感動と共に無事閉幕することができました。ご支援いただいた世界中の人々に感謝したいと思います

史上初の1年延期、選手村以外外出禁止、無観客等、数々の困難を超え、開催できたアスリートの姿は世界中の人々に勇気と感動を与え、未来への灯りをともすことができたと思います

そして、イデオロギー宗教民族国家人種の違いを超えて感動を共有できたことは世界中の人々が人間としての絆を再認識する契機となったと信じます

コロナ禍に覆われる世界不安が人々の心を覆いつつあります全体主義国家民主主義国家の優位性が比較される異常事態となっております人間としての絆は強制されて作られるべきではありません。感動と共感自発的ものでなければならず、人と人との絆は自由民主主義原則によって支えられなければならないと信じます

一部の国が全体主義覇権主義国家力による現状変更を行おうとする策動を阻止しなければなりません。私は自由で開かれたインド太平洋の実現を継続的に訴え続けました。そして今や米国戦略となり、欧州を含めた世界戦略となりました。自由で開かれたインド太平洋戦略にとって、台湾海峡平和と安定の維持は必須要件です。

日本米国台湾韓国など、自由民主主義価値を共有する国々のさらなる結束が求められております。UPFの平和ビジョンにおいて家庭の価値を強調する点を高く評価いたします。世界人権宣言にあるように、家庭は社会自然かつ基礎的集団単位としての先的価値(普遍的価値?)を持っているのです。偏った価値観社会革命運動として展開する動きに警戒しましょう。

つの時代も、理想に向かう情熱歴史を動かしてきました。理想の前には常に壁があります。よって戦いがあるのです。情熱をもって戦う人が歴史を動かしてきました。

自由民主主義価値を共有する国々の団結、台湾海峡平和と安定の維持、そして朝鮮半島平和統一の実現を成し遂げるためには、とてつもない情熱を持った人々によるリーダーシップ必要です。この希望前進大会が大きな力を与えてくれると確信いたします。ありがとうございました。

動画メッセージここまで〜

[拍手]

[司会(カタコ日本語)]

安倍総理、大変感動的な演説をしていただき誠にありがとうございます韓半島アジア平和のための演説THINK TANK 2022(?) の支持に心より感謝いたします。

[司会(韓国語に戻る)]

みなさま素晴らしい演説をしてくださった安倍晋三総理に大きな拍手をお願いします。[拍手]

トランプ大統領と共に安倍晋三総理演説してくださることを通して新統一韓国のための日本アメリカそして強力な全世界の支持を通して本日韓鶴子総裁提唱される新統一韓国の全てのビジョンが必ずや実現するであろうということを確信することが出来るに様に思います。(終)

https://www.youtube.com/watch?v=LPRXouv7LM0&t=8800s

2022-05-21

サイゼリヤTPO勝手に決めるな

「どうせ若くてグラマーな女がいいんでしょう?」

と聞かれたら、いや、キミが良いんだ、と答える。

「グズついた天気のデートって最悪よね」

と言われたら、いや、キミと過ごせる時間はいだって楽しい、と答える。

チョコレートを食べれないなんて知らなくて… ごめんね」

と謝られたら、いや、キミが選んでくれた事自体が嬉しいんだ、と答える。

でも、初デートサイゼリヤを選んだら、「「「ありえない」」」。

サイゼリヤ普段使いレストランとしては、いいけれど、などと嘯いていた、あなたたちに告ぐ。

サイゼリヤ特別な日に使って何が悪い。どこにでもありそうなサイゼリヤを、俺にとっての、彼女との初デートにとっての、ベストチョイスとして選択するのが、そんなにおかしいですか?

かに、「どうでもいい」と思って選んだ選択肢を彼女押し付けるのは、彼女のことさえ「どうでもいい」と思っている証拠だよ。

でもサイゼリアを選んだだけで、なんで自動的、「どうでもいい」と思って選んだことになるんだ?

サイゼリヤ料理が、その空間特別だと思うから、俺はサイゼリヤを選ぶ。

みんな違ってみんないい、恋愛は人それぞれの自由のはずなのに、どうしてサイゼリヤけが普段使いレストランとしてはいいけれど」になるんだよ? それって、女は若い子に限る、と何が違うんだ??

恋愛普遍的価値基準などというものは、下品だ。

2022-05-17

anond:20220517201732

あと、自分自分かわいいって言っちゃうのもな。

それの何が悪いあなた自己肯定感が低いのは仕方ないが、それをごく当然の普遍的価値観のように勘違いちゃうのはな。

好きな相手が出来た事ないか

何故そうなる? 別の説明を考えることもせずに、失礼な決めつけを突きつけるのに何の抵抗もない。

こじらせてるのは、、、あなただ!

2022-04-06

anond:20220406100424

いや、ほとんどの男は巨乳若い女が好きなのは普遍的価値観だよ。なぜなら元気な赤ちゃんを産んでくれそうだから

2022-02-22

anond:20220222084920

「安寧を求める性向」は、エンジニアに不調をもたらす?

——登さんくらい常に気持ちフラットにできればいいのですが、仕事ストレスで参ってしまエンジニアも多くいます

そうですね。ストレスを感じる理由はさまざまあると思いますが、一つ例をあげるなら、仕事目的が「お金を稼ぐこと」それ自体になっている人は疲弊やすいかもしれませんね。

稼ぐことを目的としている人のゴールは、おそらくご自身の「安寧な暮らしの実現」にあるのだと思います。それがとても大事ことなのは言うまでもありませんし、否定するつもりも毛頭ありません。

一方で、私や私の周りにいる人たちは、現状の成果に満足せずに得たお金を次の進化のために再投資しようと試みる人ばかり。どちらが良いとか悪いとかではなく、価値観が違うだけのことです。

ただ、前者の「お金を儲けて安寧な暮らしがしたい」という人にとって、仕事から受ける疲労や気分の落ち込みというのは、ある種当たり前のことだとも思うんですよね。

——というと?

どこかで成長を諦め、安寧な生活を望むような性向が、かえって心身の不調やフラストレーションを生み、パフォーマンスを落とす一因になっているのではないかと思っているんです。

お金を稼ぐためだから、しょうがいか」と思ってやっていること自体が、ストレスになるのではないかと。

登 大遊さん

でも、こればっかりは人の価値観ですからね。変えようと思っても、すぐに変えられるものでもない。

どんな価値観で生きるのかを選ぶのはその人ですし、どんな人生を選んでもリスクはついて回ります

安寧な生活や休息を優先する生き方には、仕事に対するストレスやそれに付随する心身の不調などの副作用があるということに過ぎません。

ただ、一つ言えることがあります日本において、「大義を持って働く」生き方選択をした人は、これから大変有利だということです。

——どういう意味でしょう?

自分の手で未来を変えようと野心に燃える人が世界中から集まるシリコンバレーなどでは、埋もれてしまうかもしれない人であっても、日本旧態依然とした組織の中では、同じことをするだけで、比較相対的価値が高くなりますから

技術者がわざわざベンチャーを立ち上げ、投資からお金を引き出すために詭弁を弄したり、ニーズでっち上げたりしなくても、日本大企業にはストレート解決すべき課題いくらでもあります。そしてそれらの問題を、自分自身頭脳を用いて解決しようとする時は、必ず、従来とは異なる方法解決する必要があるのです。

なぜなら、まさに従来手法では解決できなかったこからその問題放置または堆積されているためです。

——その場合は、どうすればいいのでしょうか。

その問題を一旦一般化・抽象化した上で、これを解決することができるより低レイヤーフレームワークのようなものを作ってしまうことが重要です。一定の労力はかかりますが、それによって生じた汎用的成果物は、他の業務や他の組織においても普遍的価値を持つようになります

ここで重要なのは目的を「業務上の特定問題解決から昇格させ、「その特定問題本質的類似しており、かつ既存の最適な解決方法存在しない、新たな汎用的解決方法の実現」という、より価値の高い目標に設定する必要があるということです。

登 大遊さん

——目先の特定問題をその場しのぎで解決するのではなくて、普遍的価値を目指すと。

その結果、問題がうまく解決され、成果物が出たならば、サラリーマン的な自分自身個人)と自組織にとっての短期的な狭い利益だけでなく、同時に「世界における技術進歩」という長期的で大きな価値が生じます

具体例を挙げると、たとえば「UNIX」を構成する重要機能、たとえばシェルプロセス通信パイプgrepといった機能。これは電話会社であるAT&T社の特許部門における、膨大なテキストファイル全文検索するという特定業務解決しようとした同社の社員たちが、単にその社内問題解決にとどまらず、さまざまな組織目的で汎用的に利用できる仕組みを考案し、プログラミングして実装したものです。

結果として、「UNIX」は汎用的に利用される価値を有し、単に一企業業務に留まらず、全世界的に普及し現在サイバー世界の基礎となっています

このように考えれば、ICT技術者は、これまで組織内で放置または堆積されてきた多種多様課題について、目先の解決ではなく、「正しい普遍的方法解決する仕組みを作る」という気概で、真摯に向き合えば、自然に世の中に貢献できる成果ができるわけです。

2021-12-14

anond:20211214151009

普遍的価値観になったあと言葉意味拡張していくのは当然だぞ。

本来リベラル」って定義の仕方がバカすぎる、そもそもザックリした定義だった自由主義という思想に広がりが生まれたあとで「定義考えた儂らの考える自由主義はここまで」って線引きでしかないだろ。

2021-12-11

anond:20211211114633

人権と言う概念自体時代遅れの敗者の欧米が、躍進する中露を抑える為に掲げる虚構なんだよな。

普遍的価値でも、人類が守るべき規範でもない。ただの外交戦争の道具でしかない。

そんなもんを、錦の御旗にしてる時点で知能の程度が知れるよ。

2021-12-10

ヤフコメ中国人くそわろ

首相人権重視強調 資金拠出も 民主主義サミット

岸田文雄首相矢島康弘撮影

岸田文雄首相は9日、米政府主催の「民主主義サミット」にオンライン形式で出席した。中国による新疆(しんきょう)ウイグル自治区香港での人権弾圧などを念頭に、深刻な人権状況に対し日本として声を上げていく姿勢を打ち出した。労働者権利保護などに取り組む国際機関に、約1400万ドル(約16億円)を拠出することも表明した。

写真】「ジェノサイドをやめろ!」在日ウイグル人都内で訴え

首相サミットで、自由民主主義法の支配といった基本的価値を損なう行動には、有志国が一致して臨む必要があると訴えた。日本として、アジアを中心に各国の民主化支援を続ける決意も示した。サミットに合わせて寄せたビデオメッセージでは「民主主義根付かせるためには相手国に寄り添い、共に歩むことが重要だ」と呼びかけた。

首相は9日、サミットに先立ち、衆院本会議での代表質問で「私の内閣では人権をはじめとした普遍的価値を守り抜くことを重視する」と強調した。

これに対するトップコメ

なんて情けない首相なんだろう。

媚中派とはいえ人権問題尖閣諸島を含むの海洋進出問題があるのに、お茶を濁して金は出しますと。

対中に、いつまで舐められたら目が覚めるのだろう。

返信 59件

いいね 5745

もはや何言ってるか自分でも意味わからんくなってそうで草

2021-12-07

米“外交的ボイコット” 岸田首相国益観点から判断

この論調だと意外とボイコットありえるな

あるいは折衷案として一部ボイコットという着地点にしそう

ヨーロッパ各国もボイコットするだろうから日本だけ無視はできないだろう

2021年12月7日 18時17

岸田総理大臣は7日午前、総理大臣官邸で記者団に対し「アメリカ北京オリンピックパラリンピック外交的ボイコットするということを発表したこと承知している。わが国の対応は、オリンピックの意義、さらには、わが国の外交にとっての意義などを総合的に勘案し、国益観点からみずから判断していきたい。これがわが国の基本的姿勢だ」と述べました。

松野官房長官「現時点で何ら決まっていることはない」

松野官房長官は、閣議のあとの記者会見で「アメリカ政府の発表については承知しているが、北京冬季大会への各国の対応について、コメントすることは差し控えたい」と述べました。

そのうえで「外交的ボイコットが具体的に何を意味するのかが必ずしも明らかではないところではあるが、日本政府対応については、今後、適切な時期に諸般の事情総合的に勘案してみずから判断するものであり、現時点で何ら決まっていることはない。いずれにせよわが国としては、北京冬季大会オリンピックパラリンピック理念にのっとり、平和の祭典として開催されることを期待する」と述べました。

また、松野官房長官記者からアメリカから同調するような要請はあったのか」と質問されたのに対し「日米間では日頃よりさまざまな分野について緊密に連携をしているが、外交上のやり取りの一つ一つにコメントすることは差し控えたい」と述べました。

午後の記者会見で、記者団が「北京オリンピックへの対応を決めるうえで、新疆ウイグル自治区での人権侵害や、香港での民主化弾圧なども判断ポイントになるのか」と質問したのに対し「わが国としては、国際社会における普遍的価値である自由基本的人権の尊重、法の支配が、中国でも保障されることが重要だと考えており、こうした、わが国の立場はさまざまなレベル中国側に直接働きかけている。北京冬季大会への日本政府対応は、ご指摘の点も含め適切な時期に諸般の事情総合的に勘案して、みずから判断する」と述べました。

外相自由基本的人権の尊重、法の支配保障されること重要

外務大臣は、記者会見で「『外交的ボイコット』が具体的に何を意味するのかは、必ずしも明らかではないが、日本政府対応は、今後、適切な時期に、諸般の事情総合的に勘案して判断することにしていて、現時点では何ら決まっていない」と述べました。

そのうえで、林大臣は「諸般の事情」に人権問題が含まれるのか記者から問われ「自由基本的人権の尊重、法の支配が、中国でも保障されることが重要だと考えていて、こうした日本立場は、さまざまなレベル中国側に直接、働きかけてきている。そういった指摘も含め判断する」と述べました。

自民 世耕参院幹事長「じっくりと検討判断を」

自民党の世耕参議院幹事長は、記者会見で「日米同盟は、わが国の外交の基軸である一方、中国とも『戦略的互恵関係』と表現される極めて重要な2国間関係だ。開会までは、まだ時間があるので、政府には総合的にじっくりと検討し、国益の最大化に資する判断をしてもらいたい」と述べました。

2021-09-26

普遍的価値観として美少女おっさんを愛さないというものがあるから

絵面だけで愛のない快楽を汚ッサンに求めただけってのが伝わるから

2021-09-25

ラーメンヲタの件。底辺層からクズであることを奪う権利が誰にあるんだろう。

キモく、金がなく、成長性がなく、人に胸を張れるような能力もない人間幸せになる権利はないのだろうか?

人に少しでも迷惑をかける人間は、幸せになってはいけないのだろうか?

ラーメンを食うというのは誰にもできることであり、電車を撮ったりアニメゲームをするくらい誰にでもできることだ。

誰にでも出来ることに、偏執的に価値を見出すのは、キモく、金がなく、成長性がなく、能力がないからだ。

そういう人間は大抵の場合、社交性もない。端的に言ってコミュ障だ。

人間の最も大きな武器コミュニケーションが生み出す社会だ。

コミュ障は、人間として最重要武器がない。

から人間の中でも最底辺であることが多い。当たり前のことだ。

だが、キモく、コミュ障底辺からキモく、コミュ障であることを奪う権利が、誰かにあるのだろうか?

俺はないと思う。

キモく、コミュ障で、能力がない人間幸せになろうとする権利を奪う権利は誰にもないはずだ。

金だの、社会的な地位だの、そういうものを、コミュ力のある人間が独占するのはいい。

何故なら人類享受しているインフラ資産ほとんどは、コミュ力によって生まれものからだ。

から価値あるものほぼ全てをコミュニケーション強者が独占するのは理に適っている。

一方で、普遍的価値のないものに輝きを見出して、底辺幸せを得ようとする。それもまた理に適ったことではないだろうか?

ダイヤモンドは誰もが欲しがるだろう。金持ちが持っていればいい。底辺路傍の石に、底辺同士で価値を見出す権利があるはずだ。

上で書いたように、ラーメンオタク達にキモくてコミュ障である人間が多いのは当たり前のことだ。

たかが一杯1000円前後食べ物偏執的にこだわるのはおかしいことだ。社会生物としておかしいと言って構わないだろう。

そんな人間なのだから、関わればキモい思いをする確率は高いだろう。迷惑だと感じることも多いだろう。

だが、彼らに幸せに生きる権利はないのだろうか?

俺は、あると思うのだ。

犯罪者を許せと言っているわけではない。好きに法律で裁けばいい。ただ、俺達には素晴らしい法律というシステムがあるのだから法律を好きに使えばいいじゃないか、とも同時に思う。

法で裁けぬ不快さは、許容してやってもいいじゃないかと、おおらかになっても良いと思うのだ。

法に訴えるコストに見合わないというのなら、法で裁くほどのものでもないというのなら、きっとその程度のものなのだ。許せばいいじゃないか

そもそも、今は情報インフラが整っているのだからキモ底辺の生息地なんて、調べればわかるじゃないか。調べて、わかるのなら、近寄らなければいいじゃないか。痰壺の中に痰があることを騒いでどうするのだ。

ただ、キモくて、金がなくて、能力がない。

そんな路傍の石を愛でる底辺コミュ障たちの集まりに、わざわざ出向いて行って、

「お前達はおかしい」と叫ぶことに何の意味があるんだろう。

誰かが、幸せになるんだろうか。俺は、ならないと思うのだ。

撮り鉄に「お前達はおかしい」と叫ぶことが、ドルヲタに「お前達はおかしい」と叫ぶことが、

アニヲタやゲーヲタに「お前達はおかしい」と叫ぶことが、何か意味のあることなのだろうか?

俺は、ないと思うのだ。

彼らにも、幸せに生きる権利があると思う。

底辺が、クズのまま幸せになれる世の中の方が、俺は好きなのだ

2021-07-19

anond:20210719111750

普遍的価値ではなくてこれは「福音」なんだよな。

この福音によって「俺の解釈公式をも凌駕することもある」を皆が手に入れ(てしまった)っていうのが悲劇の始まり

anond:20210719110940

作品は公開された瞬間に作者の手から離れてそれぞれの読者のものになる」

奈須きのこ発言を、世の中の普遍的価値として語るのはNGだね

2021-07-04

anond:20210704002200

あいろんな考えがあるとおもうけど、

ここにテキトーに書いて誰かが民主主義とか普遍的価値とかのために動いてくれればええとおもってるから

書き捨てというか残してほしいくらいの考えやな

2021-07-03

anond:20210703134433

批判にこっちが優秀だとか関係ないでしょ。

批判には反論する権利無視する権利がある。

ひろゆき議論をかき乱して、最後まで立っていたほうが勝ちみたいなくだらん風土を作った罪はあるな。

無論そんなのは議論アタリマエのことだから反論なり無視なりをしたらいいだけのこと。

と同時にあいつの議論のやり方はしてはならないというのは普遍的価値感にしないとならない。

けど、たまにああいうのがいないと、ああいうやり方を正しいと勘違いする第2第3のひろゆきが現れるけどな。

あいうやつはたまにいて、あん議論はしちゃいけません!と批判されることに意味がある。

2021-06-02

anond:20210602184240

俺は中国人のよいところは、赤ん坊をめでるところだと思う

9000万人が悪だからといって、残り13憶人を敵視するのは間違っている

13億人を普遍的価値観をもつ国が連合して解放しなければならない

2021-03-12

anond:20210312115215

(1)

「(あなたの言う差別定義適用するならば)KKO差別されていますね」という指摘と

「(普遍的事実として)KKO差別されていますね」という指摘は異なります

(2)

差別されているという事実を指摘することと「差別をやめるべきだ」と要求することも異なります

(3)

「(差別反対を唱えているあなた価値観によれば)差別は悪なのだからあなた差別をやめるべきだ」という要求

「(普遍的価値観として)差別は悪なのだから、すべての人類差別をやめるべきだ」という要求も異なります

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん