順法闘争(英:Work-to-rule)とは、労働組合が行う団体行動の1つである。遵法闘争ともいう。略称は順法とか遵法である。
概要
定義
順法闘争については3つの定義が考えられる。
1.について詳しくは一斉休暇闘争の記事を参照のこと。
2.の例は時間外労働拒否闘争の一部である。労働組合と使用者の間で労働基準法第36条による協定(36協定 サブロク協定)を結んでおらず慣習として残業や休日労働といった時間外労働を労働者に義務づけている場合、使用者からの時間外労働の要求は違法なものであり業務の正常な運営の一環となっていない。このため、そうした場合では、使用者からの時間外労働の要求を拒否しても争議行為のうちに入らず、組合活動の1つと見なすことができる。
3.は1970年代の国鉄で盛んに行われた。国鉄の労働組合は公共企業体等労働関係法第17条により争議権を剥奪されていたので、この順法闘争を1950年代から行っていた[1]。速度制限や前方確認といった安全を確保するための行為を定める法令を過剰なまでに遵守し、結果として業務の効率を落として怠業と同じような状態を出現させる。しかし、あくまで国鉄の労働組合は「業務の正常な運営の一環として法令を遵守している」と言い張るので、争議行為のうちに入らず、組合活動の1つとなる。
順法闘争といえば3.を連想する人が非常に多い。ゆえに本記事では3.の意味で順法闘争という言葉を使うことにする。
怠業と順法闘争の比較
労働組合が起こす行動のなかには怠業というものがある。怠業と順法闘争は非常に似ているが、異なる点もある。
共通点は、①労働組合が起こす団体行動であること、②使用者の収益を削って使用者を大きく揺さぶることができること、③正しく行うことによって正当で合法的な行為になって刑事制裁や民事制裁を受けないこと、といったところである。怠業は争議行為なので、正しく行えば正当な行為となり、刑事制裁や民事制裁を受けずに済む。順法闘争は法令の遵守なので「業務にまつわる正当な行為」であり、刑事制裁や民事制裁を受けない。
相違点は、④怠業は争議行為なので使用者に対して事前に予告が必要であるのに対して順法闘争は争議行為ではないので使用者に対する予告が不要であること、⑤怠業は予告があるので利用客にとって対策を立てやすいのに対して順法闘争は予告がないので利用者にとって対策を立てづらく大迷惑であること、⑥怠業は労働を提供しないという行為なのでノーワーク・ノーペイの原則に従って参加した時間の給与が減らされるのに対して順法闘争は名目上は労働を提供しているので参加した時間も給与をもらえること、⑦怠業は参加する労働者の給与が削られるので労働組合がその損失補填をすることになり組合費を財源とする有限の組合資金が減ってしまうのに対し順法闘争は参加する労働者の給与が削られず損失補填する必要がなく労働組合の資金が減らないこと、といったところである。
以上のことをまとめると次のようになる。
怠業 | 順法闘争 | |
①労働組合が起こす団体行動であるか | ○ | ○ |
②使用者の収益を削って使用者を揺さぶることができるか | ○ | ○ |
③正しく行うことによって正当な行為になって刑事制裁や民事制裁を受けないで済むか | ○ | ○ |
④使用者に対する予告が必要か | 必要 | 不要 |
⑤利用者が対策を立てやすいか | 予告があるので対策を立てやすい | 予告がないので対策を立てにくく、大迷惑 |
⑥参加した労働者が給与を満額受け取れるか | 給与を減らされる | 給与を満額受け取れる |
⑦参加した労働者に対して労働組合が損失補填して組合資金を減らす必要があるか | 損失補填して組合資金を減らす必要がある | 損失補填して組合資金を減らす必要がない |
労働組合にとって極めて実行しやすく、利用客にとって極めて迷惑である
順法闘争というのは労働組合にとって極めて実行しやすい団体行動である。刑事制裁や民事制裁の危険がなく、給与を満額受け取ることができ、組合資金が減らず、なおかつ使用者の収益を削って使用者を揺さぶることができる。まさしく無敵の行動である。
その一方で、順法闘争は利用客にとって大迷惑な行動である。利用客は労働組合からの予告を受けず、いつどのタイミングで順法闘争が実行されるか全く分からず、労働組合に振り回されてしまう。
労働組合にとって極めて実行しやすい順法闘争は、利用者にとって極めて迷惑な行動である。
本来ならば、周囲の人に対して過度の迷惑を掛けるような行動をする権利は、日本国憲法第12条の権利濫用禁止に基づいて、あるいは他者加害原理に基づいて、自ら封印するべきである。本来ならば、労働組合は日本国憲法第12条や他者加害原理を考慮し、「実行しやすい」という誘惑を断ち切り、順法闘争を不採用にするべきである。
国鉄における順法闘争
国鉄の労働組合に対する争議権の剥奪
国鉄など三公社五現業の職員は、1949年6月1日に施行された公共企業体等労働関係法により、団結権と団体交渉権を与えられたが団体行動権の中の争議権を剥奪されていた。
順法闘争の実行者と手口
国鉄の労働組合は複数存在したが、そのなかで国労(国鉄労働組合)と動労(国鉄動力車労働組合)が中心的存在だった。この両者は公労協(公共企業体等労働組合協議会)に属しており、他の三公社五現業の労働組合とも連携していて、日本の労働運動の中心的存在だった。ちなみに公労協が属しているのが総評(日本労働組合総評議会)で、日本最大の労働組合連合団体だった。
この国労と動労が熱心に順法闘争を行った。手口は、安全確認や定時出退勤や年次有給休暇消化を極端に厳密に行うというものである[2]。その中でも国労・動労は安全確認を極端に厳密に行う順法闘争を頻繁に行った。例えば時速25km以下という速度規制の区間で時速5km程度のノロノロ運転を行うものである[3]。その他にも、鳥が目の前に現れたら列車を停止させる、といった手口があったという。そうした手段を駆使してダイヤを遅らせ、列車の運行を減らし、使用者の収益を減らして使用者を揺さぶる戦術だった。
上尾事件と首都圏国電暴動
順法闘争によってダイヤが乱れ、列車の到着が遅れ、利用客は駅で長蛇の列を作ることになり、満員電車に押し込められるようになった。
しかも順法闘争は予告がないので利用客は対策を立てづらく、利用客にとって不満が溜まる一方だった。富士銀行人事部長の山名博は「順法より対策がたつストがまし」と語ったが[4]、予告がない順法闘争の予測しづらさを示す発言である。
国鉄の利用客の怒りが頂点に達したのが1973年3月13日の上尾事件である。埼玉県上尾市の高崎線上尾駅などいくつかの駅で利用客が暴動を起こし、駅の設備や車両の窓ガラスなどが破壊された。
さらに同年4月24日には首都圏国電暴動と呼ばれる暴動が起こった。こちらは合計38ヶ所の駅で暴動が起きるという大規模なものだった。駅の設備や車両が破壊され、発煙筒が炊かれた。
政府の違法認定
当時の政府は国鉄労働組合の順法闘争を法律違反と認定していた。1973年3月13日衆議院予算委員会で田中角栄首相が「その意味で、国有鉄道の順法闘争という名における違法行為が依然として行なわれておるということは、はなはだ遺憾なことでございます」「これはもう当然違法だと考えております」と答弁している(資料1、資料2)。
この首相答弁を詳しく言い直すと「順法闘争は争議行為であり、国鉄の労働組合の争議行為は法律で禁じられていて違法であるので、順法闘争は違法である」となる。
スト権付与の動きが政府内で起こった
田中角栄首相の答弁とは裏腹に、順法闘争を争議行為と立証するのは非常に難しいものがある。
1974年2月の春闘のころに、田中角栄首相率いる政府と春闘共闘委員会の間で「スト権問題を検討する関係閣僚懇談会を設置して結論を可及的かつ速やかに出す」というという五項目合意が交わされた。これは「国鉄の労働組合にスト権を部分的に付与してしまえば、かえって国鉄の労働組合は順法闘争をする理由がなくなり、順法闘争が減る」といった考えを持つ人が政府内に現れてきたことを意味する。
国鉄の藤井松太郎総裁は1975年10月21日の衆議院予算委員会において、条件つきでスト権付与を認める考えを明らかにした(資料)。
1975年のスト権ストが失敗に終わり順法闘争が減った
政府の動きをみて、さらに政府や自民党に揺さぶりを掛けるため、国労と動労は1975年11月26日から12月3日にかけて8日間にわたってスト権ストを実行した。
しかし、このスト権ストは全くの失敗に終わった。スト権ストを転機として国労や動労の順法闘争が急減したという。
1980年代の中曽根康弘の国鉄民営化の一因となった
1970年代の順法闘争やスト権ストによって国労と動労は徹底的に嫌われることになった。
国労と動労を敵視する中曽根康弘が1980年代に首相の座を掴み、世論も味方にして国鉄の民営化を推し進めていった。後年において中曽根康弘は「国労や動労を崩壊させるために国鉄の民営化を行った」と様々な場所で語っている(記事1、記事2)。
関連動画
関連Youtube動画
関連リンク
Wikipedia記事
その他
関連項目
脚注
- *国鉄の労働組合の国労(国鉄労働組合)は1952年12月9日に初めて順法闘争を行った。『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』274ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』274ページ
- *『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第5巻(日本放送出版協会)NHK取材班』274ページ
- *三宅明正『日本の社会・労働運動の史的研究』18ページ 1973年3月17日朝日新聞からの引用
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