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オニクス・ORE1

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オニクス・ORE1 / ORE1B
オニクス・ORE1B
オニクス・ORE1B
カテゴリー F1
コンストラクター オニクス・グランプリ
デザイナー アラン・ジェンキンス
主要諸元
サスペンション(前) ダブルウィッシュボーン、プッシュロッド式
サスペンション(後) ダブルウィッシュボーン、プルロッド式
ホイールベース 2,819mm
エンジン コスワースDFR 3,493cc 90度V8 NA
トランスミッション オニクス製 6速 横置き式 (ミッションケースはケント社製)
タイヤ グッドイヤー
主要成績
チーム オニクス・グランプリ
ドライバー スウェーデンの旗 ステファン・ヨハンソン
フランスの旗 ベルトラン・ガショー
フィンランドの旗 J.J.レート
スイスの旗 グレガー・フォイテク
出走時期 1989年 - 1990年
コンストラクターズタイトル 0
ドライバーズタイトル 0
通算獲得ポイント 6
初戦 1989年ブラジルグランプリ
最終戦 1990年ハンガリーグランプリ
出走優勝表彰台ポールFラップ
26 (17スタート)0100
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オニクス・ORE1 (Onyx ORE1) は、アラン・ジェンキンス[1]によって設計されたF1マシンで、1989年から1990年にかけてオニクス・グランプリによって使用された。

概要

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国際F3000選手権マーチ製シャシーのワークス格としてタイトル獲得の経験をもつオニクス・レースエンジニアリングが、エンジンが自然吸気エンジンのみにレギュレーション変更されイコールコンディション化したタイミングを機にF1へのステップアップを図り、独自シャシーを製作して1989年のF1世界選手権へ参戦することを決定。エンジンはブライアン・ハートチューンによるフォード・コスワース・DFRを搭載した。チームはオリジナルスタッフであるマイク・アールを代表に、ポール・シェイクスピアとジョー・シャンパーレインの3名を主要スタッフとして運営された[2]。マイク・アールはマクラーレンロン・デニスと非常に親密な間柄で、オニクスはマクラーレンのジュニアチームとして運営される将来像があった[3]。このためF3000時代からオニクスチームのタイトルスポンサーだったマールボロ(マクラーレンのタイトルスポンサーでもある)からの支援継続は決定事項であり、当面の開発資金の心配はなかった。この経緯からドライバーはマールボロドライバーから候補となり、F3000で所属していたステファノ・モデナエマニュエル・ピッロなどの候補の他、ミケーレ・アルボレート[4]J.J.レートとも1988年中に交渉が持たれた[5]

マシンデザイナーは元マクラーレンのアラン・ジェンキンスと契約し、1988年夏からORE1の設計が開始された。ORE1はジェンキンスにとって自分が責任者として製作する初のF1マシンであった[5]

1988年12月末、No.1ドライバーはデニスからの推挙とマールボロドライバーでもある元マクラーレンのステファン・ヨハンソンと契約。セカンドシートの決定は2月になり、同じくマールボロ・ドライバーであり、タイトルスポンサー「マネートロン」を仲介することができたF3000ドライバーベルトラン・ガショーを起用することとなった[6]。マールボロに加えてマネートロンからの資金を合せた総額は900万ポンド(約20億円)とされ、当時の新規参戦チームとしては十分な資金を持つ体制となった[7]。これによりタイヤは他の新規参戦チームの多くが選択したピレリではなく、ピレリより高額であったがグッドイヤーと契約することができた。

開発

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ジェンキンスをチーフに、マシンのデザインはすべてコンピュータで管理されたCAD/CAMシステムを使って行われた。コンピュータ本体とプログラムはIDA社が提供。空力テストはインペリアル大学風洞で行われた。ジェンキンスはマクラーレンでジョン・バーナードをボスとするMP4シリーズの設計アシストを7年間務めており、ORE1のノーズセクションが細身ながら角ばっている形状なのはMP4シリーズのモノコック断面形状から影響を受けている[8]

チームは独自の横置き式6速ギアボックスを製作し[9]、これをウィリアムズのミッションケースも製作しているケント社製のミッションケースに格納した。ダンパーもオニクスの自製で、フロントダンパーはフロントノーズ上面(ドライバーの足の上)に左右別々にダンパー用の小部屋を設け、そこにダンパー一式を収納し薄いパネルでカバー、プッシュロッドで機能させるという独自の特徴を持つ方法が採られた。後輪のサスはプルロッドで、シャシーはシーズン中の改良などの設計変更に対応できるよう2ピース構造であった。

細部の空力にはレイトンハウス・マーチエイドリアン・ニューウェイが前年に取り入れていた、アンダーパネルからモノコックへとつながるラインをただ直角に乗せるのではなく、アンダーパネルの端部を曲面に仕上げてモノコックにスムーズなラインで繋げる細かな工夫がされていた[8]

1989年シーズン

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ORE1の完成は開幕戦ブラジルGPの直前になっても間に合わず、未完成のままパーツとして現地に持ち込まれる状況で、ネルソン・ピケ・サーキット近郊のカートコースで組み立てとシェイクダウンを行うことがブラジルを訪れた主な目的となっていた[10]。本来であればイギリスでORE1の完成したあとにファクトリーのあるリトルハンプトンの近所に住んでいたジョン・ワトソンに乗ってもらい、新車ORE1の評価をしてもらう予定であったが、完成の遅れによりワトソンの立場はアドバイザー的な役割で終わった[10]

ブラジルGPが開幕し、金曜朝に行われた開幕戦の予備予選では、ヨハンソンが5周、ガショーが6周のみの走行しかできず、2台が予備予選の最下位となる12位と13位に並ぶという一番下からのスタートとなったが、そのブルーに白とピンクのストライプが施されたカラーリングと、メス型成形による細身のカーボンファイバーモノコックや、フロントサスまわりのカバーパーツの合いの良さなど、ホンダF1監督の後藤治レイトンハウスの安川実[注釈 1]がわざわざオニクスのピットにマシンを見にくる様子が報じられるなど[11]、細部の仕上げの美しさも持つマシンであった。

初期トラブルの発生によりまともに戦える状況になるまで数戦を要したが、第3戦終了後にポール・リカール・サーキットでほぼ全チームが参加して行われた合同テストではガショー4位、ヨハンソン6位となる好タイムを出し、そのポテンシャルを披露した[12]。直後に行われた第4戦メキシコGPではヨハンソンが予備予選を初通過し、土曜の午前走行で6位タイムを記録するなど好調を維持。チームのF1初出走となった決勝レースではミッショントラブルでリタイヤするまで10位を走行。レース後にヨハンソンは「21位の予選グリッドから、前にいた車をどんどん抜けたし、速いマシンたちとも一緒に走ったからポテンシャルがようやくはっきりつかめた。ロータスベネトン、予備予選でいつもトップのブラバムをコース上で抜けたのはチームが勇気づけられたよ。」とORE1に手ごたえを掴んだ実戦デビューとなった[13]。続く第5戦デトロイトGPでもサスペンショントラブルでリタイヤするまでは7位を走行。第7戦フランスGPではガショーも予選通過に成功し初の2台揃っての決勝スタートを迎え、ヨハンソンが決勝5位に入賞しオニクス初となるポイント獲得に成功。ガショーも13位でF1初完走を果たした。初参戦チームには厳しい条件であった予備予選の通過に失敗することもあり、DNQとなるグランプリもいくつかあったが、第13戦ポルトガルGPでは、ヨハンソンが決勝でタイヤを交換せずにタイヤラバーが一部無くなる状況で走り通すレース巧者ぶりを見せ3位でゴールし、予備予選組として驚異的な表彰台獲得を達成した。これはオニクス・チームとORE1にとっての最高成績となった。このポルトガルGPからはガショーに代わってフィンランドの新鋭J.J.レートがORE1をドライブ[注釈 2]。レートは豪雨となった最終戦オーストラリアGPで5位まで浮上する走りを見せた。しかし雨による水量が多く電気系統にトラブルが発生、エンジンストップによりポイント獲得を逃した[14]。なお、同シーズンのポールリカールで行われた合同テストでは、国際F3000でJ.J.レートのチームメイトとしてパシフィック・レーシングでコンビを組んでいたエディ・アーバインもORE1をテストドライブしている[15]

ヨハンソンはORE1について、「チームがF1での経験不足なので、走っていて急にノーズコーンが外れて落ちてしまうなど驚くようなトラブルもあったが、マシンの基本素性は良かった。チームにマシンを理解できているエンジニアがもう何人かいてくれたらもっとよかったと思う。マシンの走行中の車高がどういう意味を持つかを理解できている人がオニクスのピットには少なかった。」と述べている[16]

'89シーズン終了後、メインスポンサー「マネートロン」のオーナーであるバン・ロッセムがポルシェV12エンジンの獲得失敗によりF1への興味を失ったとしてスポンサーから撤退[注釈 3]。チームは一転して資金難となり、身売り説が出る状態まで状況が急速に悪化[17]。ニューマシンを手掛ける予算は無く、翌1990年もORE1を引き続き使用することになった。

1990年シーズン

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1990年は、前年終盤に引き続きヨハンソンとJ.J.レートの二人で開幕戦を迎えた。マシンはORE1Bと表現されていたが、資金難により前年からのアップデートがなく、変更されていたのはフロントウィングのエンドプレート形状のほかには確認されなかった[18]。この状況で開幕から2戦は二台とも予選を通過することはできなかった。

第2戦ブラジルGP終了後、オニクス・グランプリはスイスの投資家グループに売却され、マイク・アールら主要スタッフとデザイナーのアラン・ジェンキンスはチームを離脱。主要デザインスタッフのデイブ・エイミーもチームを追われ、ドライバーのヨハンソンとの契約は新経営陣によって一方的に解除された[19]。代わって新たにスイス人ドライバーのグレガー・フォイテク(父のカール・フォイテクが新出資者であった[20])が加入。マシンはそれまでピンクだったストライプ部がライトグリーンへとカラー変更を受け、エンジンチューナーもブライアン・ハートだったものがスイスのハイニ・マーダーへと変更が強行された。レートは第3戦サンマリノGPで初完走(12位)したが、新オーナーとなったペーター・モンテベルディ(スイスの高級車メーカー「モンテヴェルディ」創業者)と、出資者カール・フォイテクの意向からグレガー・フォイテクに肩入れする体制となり、モンテベルディがイギリスのファクトリーを自身の本拠であるスイスに移転すると強硬に主張したことから、元々いた多くのイギリス人スタッフがチームを離れた影響でトランスミッションをまともに組めるメカニックが存在しないという弱体化の一途をたどった[21]。後は5度の予選落ちと4度のリタイアという状況の中、ドイツGPからはチーム名を「モンテヴェルディ・オニクス」に変更。第10戦ハンガリーGP後の8月15日に行われたモンツア合同テストでは、エンジニアとメカの人数不足からまともに走行する事が出来ず、危険を感じるようになったレートの個人マネージャであるケケ・ロズベルグは、このテスト後に見切りをつけてレートとともにモンテベルディ・オニクスから離脱した[22]。フォイテク家も同様の理由でチームから離脱し、資金と両ドライバーを失ったチームは最終戦までグランプリを戦うことなく消滅した。最後はオーナーのモンテベルディが「私はレーシングカーを設計した経験もあるし、エンジニアを兼務することもできる。」と発言。マシンカラーもスイス国旗をモチーフとした赤と白へと変更されていた。

保存車両

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スイスにあるモンテベルディ自動車博物館にはオニクス・ORE1が展示保存されている[23]

F1における全成績

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(key) (太字ポールポジション斜体ファステストラップ

シャシー エンジン タイヤ ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 ポイント 順位
1989年 オニクス・ORE1 コスワースDFR G BRA
ブラジルの旗
SMR
サンマリノの旗
MON
モナコの旗
MEX
メキシコの旗
USA
アメリカ合衆国の旗
CAN
カナダの旗
FRA
フランスの旗
GBR
イギリスの旗
GER
ドイツの旗
HUN
ハンガリーの旗
BEL
ベルギーの旗
ITA
イタリアの旗
POR
ポルトガルの旗
ESP
スペインの旗
JPN
日本の旗
AUS
オーストラリアの旗
6 10
ステファン・ヨハンソン DNPQ DNPQ DNPQ Ret Ret DSQ 5 DNPQ Ret Ret 8 DNPQ 3 DNPQ DNPQ DNPQ
ベルトラン・ガショー(12戦まで)、J.J.レート(13戦から) DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ 13 12 DNQ Ret Ret Ret DNPQ Ret DNPQ Ret
1990年 オニクス・ORE1B コスワースDFR G USA
アメリカ合衆国の旗
BRA
ブラジルの旗
SMR
サンマリノの旗
MON
モナコの旗
CAN
カナダの旗
MEX
メキシコの旗
FRA
フランスの旗
GBR
イギリスの旗
GER
ドイツの旗
HUN
ハンガリーの旗
BEL
ベルギーの旗
ITA
イタリアの旗
POR
ポルトガルの旗
ESP
スペインの旗
JPN
日本の旗
AUS
オーストラリアの旗
0 -
ステファン・ヨハンソン(2戦まで)、グレガー・フォイテク(3戦から10戦まで) DNQ DNQ Ret 7 Ret 15 DNQ DNQ Ret DNQ
J.J.レート DNQ DNQ 12 Ret Ret Ret DNQ DNQ NC DNQ
1989年
  • コンストラクターズランキング10位。
  • ドライバーズランキング11位:ステファン・ヨハンソン(予選最高位12位1回 決勝最高位3位1回)
  • ドライバーズランキング-位:ベルトラン・ガショー(予選最高位11位1回 決勝最高位12位1回) - 第12戦まで参戦
  • ドライバーズランキング-位:J.J.レート(予選最高位17位2回) - 第13戦以降参戦
1990年
  • コンストラクターズランキング-位。
  • ドライバーズランキング-位:ステファン・ヨハンソン(全戦予選落ち) - 第2戦まで参戦
  • ドライバーズランキング-位:グレガー・フォイテク(予選最高位20位1回 決勝最高位7位1回) - 第3戦以降参戦
  • ドライバーズランキング-位:J.J.レート(予選最高位22位1回 決勝最高位12位1回)

脚注

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注釈

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  1. ^ レイトンハウスF1チーム広報マネージャー。ロジャー安川の父。
  2. ^ ガショーの解雇理由は「公式の場でチーム体制への批判を話し過ぎた」ことにマネートロンのバン・ロッセムが「ガショーのことは自分の息子同然だと思っているが、それでも一連の発言は許せない」と激怒したため。なお、シーズン序盤からガショーに対しては「チームにマネートロンの資金を持ってきたのは自分だとしてわがままな要求が多い。」とスタッフから良く思われていない面があった。(出典:ガショー汚名挽回 グランプリエクスプレス '89イギリスGP号 28頁 1989年8月5日発行)
  3. ^ バン・ロッセムは'89シーズン中から「もっとチームを大きく強くしたい。そのためのおカネは出す。アラン・プロストネルソン・ピケにチームに入ってもらえたら最高だと思ってすでにコンタクトは取ったし、エンジンもポルシェを絶対に取りたい」と野望を述べていた。

出典

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  1. ^ 近代F1史を築いてきたマシンデザイナーたち アラン・ジェンキンス F1コンストラクターズ・スタイルブック 162頁 ソニーマガジンズ 1992年10月25日発行
  2. ^ Moneytron Onyx F1日本グランプリ公式プログラム 56頁 鈴鹿サーキットランド 1989年10月発行
  3. ^ ホンダの新たな供給先はオニックスかティレルか? GPX '89イタリアGP号 37頁 1989年9月30日発行
  4. ^ アルボレートの行方はオニックスか GPX '88ポルトガルGP号 28頁 1988年10月15日発行
  5. ^ a b オニックスF1ヘ向けて始動 GPX '88スペインGP号 28頁 1988年10月22日発行
  6. ^ ヨハンソンのパートナーはガショーに決定 グランプリ・エクスプレス '89シーズン歓待号 30頁 1989年3月13日発行
  7. ^ オニックスにメインスポンサー グランプリ・エクスプレス '89開幕直前号 6頁 1989年4月3日発行
  8. ^ a b メカニズム解析 ONYX ORE1 グランプリ・エクスプレス '89ブラジルGP号 19頁 1989年4月15日発行
  9. ^ '89チームラインナップ オニックス グランプリ・エクスプレス '89カレンダー号 7頁 1989年1月7日発行
  10. ^ a b オニックス早々と帰国 心はすでにサンマリノ グランプリ・エクスプレス '89ブラジルGP号 36頁 1989年4月15日発行
  11. ^ レーシングオン増刊 '89ブラジルグランプリ速報 武集書房 1989年4月発行
  12. ^ プロストがコースレコード、オニックス勢が好調4番手 グランプリ・エクスプレス '89メキシコGP号 28頁 1989年6月17日発行
  13. ^ 決勝LIVE REPORT VOICE S.ヨハンソン グランプリ・エクスプレス '89GP号 5-7頁 1989年6月17日発行
  14. ^ 決勝LIVE LAP CHART & RESULT グランプリ・エクスプレス '89オーストラリアGP号 6-7頁 1989年11月25日発行
  15. ^ GPX シーズンオフ号 31頁 1990年2月24日閲覧
  16. ^ 決勝進出のオニックス 喜びの中で不協和音も グランプリ・エクスプレス '89フランスGP号 29頁 1989年6月17日発行
  17. ^ ブラバムとオニックスに合併の動き 売りに出された両チーム グランプリ・エクスプレス アメリカGP号 30頁 山海堂 1990年3月31日発行
  18. ^ 事情通from PressRoom グランプリ・エクスプレス '90サンマリノGP号 31頁 1990年6月2日発行
  19. ^ 混迷極めるオニックス デザイナー抜きの再出発。 グランプリ・エクスプレス サンマリノGP号 31頁 山海堂 1990年6月2日発行
  20. ^ オニックスはスイスグループが買収へ F1GPX 1989年第2戦ブラジルGP号 30頁 山海堂
  21. ^ オート・テクニック 1990年6月号 山海堂
  22. ^ モンテベルディ F1から撤退 F1GPX 1989年第11戦ベルギーGP号 30頁 山海堂
  23. ^ MONTEVERDI Formula1 モンテベルディ・オートミュージアム公式ウェブサイト

外部リンク

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