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「浜松市の石造文化財」浜松市石造文化財調査会 2001年/「日本子育て物語-育児の社会史」 上笙一郎 筑摩書房 1991年 ⑩【再掲載 2017.3】 [読書記録 郷土]

今日は9月18日水曜日です。


今回は浜松市石造文化財調査会の
「浜松市の石造文化財」を載せます。

我が家の隣に秋葉灯籠が建てられています。
常夜灯が灯り、地区の住民が当番で、お清めや掃除などを行っています。
隣のものは19世紀にはいってから建てられたようです。

浜松市石造文化財調査会による調査結果だと思いますが、
大変興味をもちます。



もう一つ、再掲載になりますが、上笙一郎さんの
「日本子育て物語-育児の社会史」⑩を載せます。
上さんの奥さんは山崎朋子さんです。




☆「浜松市の石造文化財」浜松市石造文化財調査会 2001年

◇秋葉灯籠の流行
  浜松市石造文化財調査会 218基
  218基仲江戸時代の年号は94基でほぼ半数
    路傍に立つのが本来の姿 
  夜間 暗い道を歩く人のための目標となる灯り
 昼間 道標の役目
  秋葉信仰のよりどころ+往来を行き来する人へのサービス

  最古 市野町熊野神社  宝暦10(1760)年 
  白鳥町      宝暦13(1763)年
  宝暦・明和
       曳馬地区・積志地区・蒲地区・長可美地区・天竜地区・
       笠井地区  (城下から見て東北)
 天明年間(1781-1789)
       庄内地区
 寛政年間(1789-1801)
       浜名湖岸~佐鳴湖岸
都田地区・新津地区・白脇地区は19世紀に入ってから

  灯籠の建て方
  秋葉講が建立(集団による)


◇新津地区
P135


◇秋葉信仰
  秋葉山 
    春野町と龍山村の境界
  866m 火之迦具土神
 火伏せの神 総本社秋葉神社
 愛宕山(京都市)

  灯籠と鞘堂

  12月 本宮での「秋葉の火祭り」
 1月 浜松秋葉神社大祭

  火防の秋葉山(秋葉寺、秋葉神社、可睡斎)信仰
 
  講と代参 






☆「日本子育て物語-育児の社会史」 上笙一郎 筑摩書房 1991年 ⑩【再掲載 2017.3】 

1.JPG

[出版社の案内]
原始時代から現代まで―子どもの歴史と子育ての歩みを、豊かな資料を
引きつつ興味深く語り、日本人の育児の知恵と子どもへの深い思いを明
らかにする。


≪近代≫①
◇教育勅語と国定教科書 - 国民皆学校制度の本質
□明治維新により変貌したもの
大転換
   ① 将軍      → 天皇
  ② 農業      → 工業(産業の主軸)
    ③ 「武士-農民」 → 「資本家-労働者」(支配関係)
  国民皆学校制度 
    明治44(1911)年 小学校就学率98.2%

□「邑に不学の戸なからしめん」
明治5(1872)年 学校制度の創設
  寺子屋師匠がそのまま小学校の教師になったのが大半
   「実語教」「童子教」+「小学読本」(欧米もの翻訳)
明治10~20年代前半
 就学率50%以下
      → 登校する子に賞やバッジ
 - 子守学校

□国民皆学校制度の本当のねらいは?
① 学制
② 地租改正条令 
     → 資本主義社会の発達
③ 徴兵令
    「一定水準の近代教育的な学力 →兵士・労働者の育成」

□温良な労働者と勇敢な兵士と
教育
   → 労働者と兵士のために
教育勅語(1890)と国定教科書(1902)



◇年少労働者と工場法 - 「資本」による子護り
□近代資本主義を支えた女性年少労働者
  目的は利潤の追求
    生活上の必要ではない
    → 若年労働者 女子に多い = 近代日本の工業の基礎

□「工業は白昼に人を殺している」
 寄宿舎 - 連続徹夜業 → 結核  (石原修『女工と結核』)

□難産を重ねた工場法
資本 
   ~ マルクス「血も涙もない怪物」
   - 工場法の制定 岡実『工場法論』1913
明治20年
   ~ 再々提出
  明治44年(1911)ようやく可決制定
<子護り>としての工場法

□工場法は子供たちを護れたか?
年齢制限・労働時間制限等
   → 実際には護れず (但し書きが抜け道に = ザル法)
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「遠州浜」でんでんむしの会  1980年 /「丸谷才一と22人の千年紀ジャーナリズム大合評」 都市出版 2001年 ③【再掲載 2017.4】 [読書記録 郷土]

今日は6月29日、土曜日です。



今回は、でんでんむしの会による
「遠州浜」を紹介します。


でんでんむしの会は、当時の文化サークルだと思います。
メンバーに教員の大先輩、戸塚晃彦さんのお名前も。
地域の歴史を知るサークル、いいですね。
浜松市の図書館には、でんでんむしの会による、
「ふるさとのかるた浜松」
「ふるさとのかるた 2 浜名湖」
「天竜川に沈んだ村」
「浜松の歳時記」
も収められています。


遠州浜小学校、開校当時は大きな学校でしたが、次第に人数が減り、
2011年4月に五島小学校と統合され、南の星小学校となりました。
五島小、南の星小ともに勤務しましたが、とてもよい地域でした。



もう一つ、再掲載になりますが、
「丸谷才一と22人の千年紀ジャーナリズム大合評」③を載せます。




☆「遠州浜」でんでんむしの会  1980年

◇連絡先  
  浜松市遠州浜○-○
でんでんむしの会  
    右崎容子 加藤ますみ 鈴木久子 高林紀子
平野美映 松田とみ子 八木若代 戸塚晃彦先生


◇浜団地の生い立ち 
昭和40年3月24日午前10時30分
    五島小学校講堂にて用地買収調印
  造成土…三方原台地、磐田原台地より
    「海とみどりと太陽のまち」
  昭和40年9月頃入居開始
  昭和46年遠州浜小学校開校(五島小学校内)
昭和53年4月江南中学校開校


◇天竜川
五百年前より天竜川は現在地に - ◎天竜川との闘い


◇お地蔵様
正覚坊亀様 
    8月 3日
沢木地蔵  
    7月24日 
    古い榎木にお水-眼病やいぼに効く
    北向き地蔵は感応が効く


◇五島村開拓の歴史
五島開拓 昔は天竜川中州
(1)西島  
    大杉氏と池田氏等
    貴船神社は天正2(1574)年建立

(2)福島  
    寛文年間(1661-1671)豊田郡山田村に権三と興惣兵衛・豪農
     → 領主から立ち退き →開墾
  
(3)江之島 
    慶安4(1651)年 引佐郡刑部村の内山氏
  
(4)松島  
    寛永年間(1624)四本松の豪農・第15代鈴木門五左衛門の二男
正保2年(1645)25歳 分家独立 
      五左衛門→改名→五右衛門
1667年 開拓に成功
  
(5)鶴島  

(8)松島家のこと 
   松島廉作(1855-1939) 明治衆議院議員第2回からの12年間
(5回当選)
明治37年落選→静岡市 「静岡民友新聞社」
祐泉寺門前に松島学校






☆「丸谷才一と22人の千年紀ジャーナリズム大合評」 都市出版 2001年 ③【再掲載 2017.4】

[出版社の案内]
日本の出版事情、野球映画、選挙報道、似顔絵、テレビのサッカー中
継…。一つの議題を元にして具体的に議論する鼎談集。ジャーナリズ
ム志望者や関係者に批評の原点を示す。

2.jpg

◇似顔絵は一国のジャーナリズムの成熟度と洗練度を示す 
 ◎対談:鹿島茂・東海林さだお・丸谷才一

□似顔絵にしたい顔、したくない顔

□大正期 岡本一平 
   → 近藤日出造「読売」、清水昆「朝日」、那須良輔「毎日」
◎「豪傑」「明るさ」

 □ルイ・フィリップの似顔絵で投獄されたドーミエ
ドーミエが半年間投獄
    → ルイ・フィリップ国王の似顔絵
 
 □似顔絵でなぜみんな喜ぶの?
なぜ似ていることが嬉しいのか
フランスの二大イラストレーター
  ドーミエ  人間○「人間大好き」
グランヴィル 動物○

 □似顔絵は国境を越えるか
親近感 ~ 綽名
共通体験のある面白さ 
     イギリスのカリカチュアはひどい
 
   山藤似顔絵塾



◇テレビのサッカー中継と往年の名選手、元オーナーと語る
 ◎対談:海老沢泰輔・轡田隆史・丸谷才一

 □スポーツ中継のプロを 
   まあまあ

 □サッカーにコマーシャル? 
   米国:CM入れられずにプロサッカーリーグが×

 □テレビ放送はこんなにスポーツの規則を変えた
スポーツはライブで 
     → テレビがルールを変えた
アメリカンフットボール
     → レフリーが二人に増えた
ゴルフ 
     → マッチプレーがストロークプレーになった
→ アンダー標示 
→ サドンデス対決も

 □「全スポーツ界の根性主義・倫理主義をなぜジャーナリズムは論難
   しないのか?」

 □なぜテレビ中継で野球チームの応援をしていいの?
スポーツを嘗めている

 □イギリス 
   サッカーは下層階級
クリケット・ラグビーが上流
「イギリス人に学生時代サッカーをやってましたなんて言っては
    いけません」
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「あの町この町」加藤鎮毅 ひくまの出版 1981年 /「非行の予防学」佐々木光郎 三学出版 2011年 ③【再掲載 2016.5】 [読書記録 郷土]

今日は3月26日、火曜日です。

今回は、加藤鎮毅さんの
「あの町この町」を紹介します。
新しい任地が決まったときにその地域のことを調べますが、
駅南に勤めていた頃読んだ本だと思います。


今回紹介分から強く印象に残った言葉は…
・「浜津が言いづらいからハーマツか?」


・「『八幡宮由来記』、『十六夜日記』から浜松か?」


・「天竜川の呼び名は、あら玉川、広瀬川、天中川、天竜川へと変遷し
  ていったか。」


もう一つ、再掲載になりますが、佐々木光郎さんの
「非行の予防学」③を載せます。

本日は勤務校で離任式があります。
わたしも40年間の学校勤務から離れます。






☆「あの町この町」加藤鎮毅 ひくまの出版 1981年

◇加藤鎮毅
1935生 中区曳馬町
 遠州の歴史を学ぶ会 浜松市かるた協会会長


◇ハーマツについて 
万葉集
巻一  白波の浜松か枝の手向けくさ幾代までにか年の経るらむ  
                            川島皇子
 いざ子ども早く日本へ大伴の三津の浜松待ち恋ひぬらぬ  
                            山上憶良
  巻二  磐代の浜松が枝を引き結びま草くあらばまたかへりみむ    
                            有馬皇子
巻三  昨日こそ君はありしか思はぬに浜松の上に雲たなびく   
                            大伴三中
  巻十二 豊国の企救の浜松ねもころになにしか妹に相言ひとめけむ
                           柿本人麻呂
  巻十五 ぬばたまの夜明かしにも船は漕ぎ行かな三津の浜松
        待ち変ひぬらぬ           中臣朝臣宅守
  巻二十 住吉の浜松が根の下延べて我が見る小野の草な刈そね   
                            大伴家持 
 普通名詞ばかり 
固有名詞は「倭名抄」の国衙 源順(911~983)
「浜松」「波万万都」「浜津」
- 浜津が言いづらいからハーマツか?
  
 浜の松から浜松  
「八幡宮由来記」
     小沢渡の浜辺より一本の松が引馬野に
浜の松より浜松
  「十六夜日記」 
     こよい引馬の宿と言うところにとどまる。この所のおおかた
    の名をば浜松といいし…

 天竜川と馬込川 
天竜川 
    あら玉川
    - 広瀬川 
    - 天中川
     - 天竜川(室町末頃)
「続日本紀」「文徳実録」平安中~


◇町名
江西地区 13町
海老塚町 海老 ~ 入江                              
    ① 海老を食してその殻をまとめて捨てた。                      - 塚を作ったこれより海老塚
    ② 大量の海老が打ち上げられた                           - 懇ろに葬る 塚 海老塚
    ③ 開拓者が、健康で腰が曲がるまで寿命を保って「生まれ、
     育ち、生活」した
      土地のために貢献しようと誓い合って海老塚村と命名
    ④ 「蛇塚」→「海老塚」  
    ⑤(著者)地形が海老のような形でないか                        - 水、津波の犠牲になった人々を弔った塚があったの
       ではないか
  
   駅南   4町                                  
    砂山町 「曳馬拾遺」1711年 杉浦国頭
      当時は沙山 
        「さして高きにあらず、かりそめの岡山也、たたいさ
         このみ有て、土石も見へすふりぬる松の生しけるに…」              - 高くない砂丘が点在していたのか?
        吉宗の頃から開墾 
        有数の美田 
         - 穀倉地区 
        いちめんの田
         ~ スズメ 俗称「スズメの村」                     - 当初 砂山(沙山)村
     → 白脇村大字砂山                          
1882(明治15)年 浜松八幡地
1904(明治37)年 浜松町に合併(竜禅寺 寺島と共に)
1925(大正14)年 
         この町に先祖が住み着いた頃、見渡せば砂山と松原
        だったと言われる昔を偲んで「砂山町」に
         高山定吉(菅原町自治会長 映画評論家・郷土史家) 



☆「非行の予防学」佐々木光郎 三学出版 2011年 ③【再掲載 2016.5】

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Ⅲ 配慮のある家庭環境

1 住まいと非行①
   住まいと年齢 
     中学生 
      ~ 一日の疲れを癒やす場が必要
勉強机    
     ないと「学ぶ楽しさ」から遠のく
心地の悪さ
    = 子どもの年齢に慎重な気配りを
別々の玄関  
   個室も使われ方による
    入室の許可

2 住まいと非行②
茂る雑草  
     総じて多くの困難を抱えた家族の場合は、周囲の清掃が行き
    届かず雑然としているところが多かった
環境と非行との相関関係は高い
ケリング・ウィルソン(米)「割れ窓理論」
     「だらしないままでもいいよ」    
     「きまりだったら守らなくていいよ」
= 非行準備制
   表札と玄関 
    (1)いろいろな困難を抱える家庭ほど表札がない
         親の自尊感情が低い 
         ひとりぼっちの子育て
(2)玄関 
        = それが親の対人関係の力量と養育能力を如実に物
         語る
◎ 玄関はオモテ(外)とウチ(個人)をつなぐ門
間取り  
     個室 ○自立への一歩
       ×たまり場
大切
      =「家の真ん中に居間を作り、子どもは居間から自室に行
        くような間取り」

3 離婚と再婚  ひとり親家庭と再婚家庭(ステップファミリー)
間違った認識(シナリオ) 
     ×ひとり親は悪い
     ×再婚家族に対する根拠のない見方
   うまくいかない家族
(1)生別した親の悪口を盛んに言う
(2)近隣親族から相手にされない
        「孤立した家庭」ネグレクトへ
(3)子どもからの「被害」を訴える親が実に多い
       子どもの前で「お前のために苦労している」と愚痴る
ステップファミリーの心入れ
(1)新家庭を作るとき、子どもの年齢や心の動きにどれほど
      配慮し、その意思を尊重したか
    丁寧な準備が必要
(2)「実親」を性急に演じようとしたか
(3)一方の実親との関係をうまく整理をつけたか
◎ 大人は子どもの最善の利益を考える余裕をもたない

4 ステップファミリーの知恵
年齢 
     小5~中学生 反発が強い
     = 兄弟でも年齢により反応が違う
ステップファミリーの知恵
うまくいかなかった理由
(1)パートナー紹介等のうまく取り持つ努力が成されていな
      い場合
(2)子どもの意見や意向を尊重しないで勧めている場合
(3)せっかちに「本当の子ども」を強いる
    → 大人がわだかまりを和らげる努力を!
     互いのよい悪いを認めあえる関係に!
非行の本当の背景  
     以前の大人観
離縁話  
     思春期のステップファミリーにはもろさがある

5 親の付き合いと非行
親の背を見て育つ  
     親のもつまずい「能力」を学習し、自らも他とうまく交わる
    力を失っていく
非行をつくる親 
     親自身が今を生き生きと生きていない
       「自分に甘く、他者に非常に厳しい」
権威に頼る

6 父親の役割
負の父親像
父との風呂
教育家庭の父親
母親の役目

7 祖父母と非行
登場するさせられる祖父母
祖父母クローズアップ 
    (1)親権が祖父母にあるような雰囲気の家族
(2)祖父母がやむを得ず引き受けている場合
強すぎる祖父母
養育しない親  
     声掛けは必要
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「土のいろ集成 第十巻」ひくまの出版 1987年 /「話し言葉の日本語」井上ひさし・平田オリザ 小学館 2002年 【再掲載 2013.7】 [読書記録 郷土]

今回は、昭和の郷土誌、「土のいろ集成 第十巻」を紹介します。



浜松市中央図書館のデジタルアーカイブス、
発刊者「飯尾哲爾」の項には、


「飯尾哲爾(敷知郡曳馬村小学校教員)は主宰する浜松子供協会一周年記念とし
 て『土のいろ社』を結成して機関誌『土のいろ』を発刊し、民俗学方面より
 の郷土研究を志した。その第1号を刊行したのは大正13年1月であったが、
 発刊の辞に『吾々はどうしても郷土を忘れることは出来ません。郷土のもつ
 伝説や風俗の様々を時の流れにまかせて流失することは、到底私共のしのび
 得ることではありません。私共はこの時勢の推移にさからっても、これが蒐
 集保存につとめたいと思います。そして(中略)現代のそれらとの関係をも明
 らかにして行きたいと思います」とある。『土のいろ』は、発行部数毎号約
 150部、年間3、4冊の割をもって発刊され、昭和15年9月第17巻第2号
 をもって休刊にいたるまで通巻83冊を刊行している。【特集研究号】特集号
 に『遠州俚謡』『浜松凧揚』『桜が池伝説』『遠州の凧』『浜松土俗玩具』『遠
 州七不思議』『遠江国古人百人一首』『民話伝説』『鏡山歌』『きつねのはな
 し』『遠州伝説地名の起原』『遠州の方言』『克明館蔵書目録』『遠江郷土歌
 集』『郷土伝説植物考』『西遠の民家』『聞書』『鴨江見世物』『遠州風物手鏡
 百影』『遠江に於ける屋敷神』などがある。これに協力する土のいろ会員の
 中道朔爾・松井多門・三輪桂作・県善三郎・久保田閲次・吉沢純道・渥美実
 などがあった。寄稿者も遠州全域にわたり、柳田国男も『土のいろ』第4巻
 第4号には『蟷螂考』を、楠方熊南も感想文を寄せている。飯尾哲爾は『土
 のいろ』の発行にあたり自ら謄写版の原紙をきり、自ら印刷製本し、これを
 発送したという。『土のいろ』は遠州地方では古い郷土研究雑誌であり、遠
 州地方の研究に欠くことのできない参考書となっている(『土のいろ』は戦
 後復刊され通巻113冊に及んでいる)。」

 
とあります。



今回紹介分から強く印象に残った言葉は…


・「すばらしい遠州七不思議考」
- 七不思議と聞くと7つあると思うのですが、遠州各地でそれぞれの
 七不思議あると知りました。


・「すばらしい遠州七不思議考」
- 今でも東区浜松アリーナ近くに六軒京本舗があります。


・「アクセント区分 浜松 湖西 白須賀 舞阪 新居 -  山口幸洋」




もう一つ、再掲載になりますが、井上ひさしさん、平田オリザさんの
「話し言葉の日本語」をのせます。





☆「土のいろ集成 第十巻」ひくまの出版 1987年

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<画像は「店主お薦めの古書・古美術 百寿堂 浜松」サイトより>

◇土のいろ 93~100号 月報10
  宇波さんのことなど 金田一春彦
  宇波耕策『浜名湖とアクセントの分布』

  すばらしい遠州七不思議考  清水達也

  土のいろ校訂余録  佐藤彰



◇昭和33年4月 復刊10号 通刊93号
  六軒京紫蘇巻きのこと 永井治雄
    金原法橋 - 妙恩寺
         → 鈴木氏 京都 妻 まつがしそまき
    六軒茶屋の紫蘇巻き有名に   
  六軒と鈴木京次郎
        → 六軒の京さん
    女子相伝
 
  浜名湖周辺の民家について  名工大 鈴村○○ 
ネドコ ダイドコ ザシキ ヨリツキ
  西遠地方におけるお鍬まつりの流行 渥美実
 
  細谷で聞いた『花咲じじい』山口幸洋
 
  遠江国分寺と其の瓦当  加藤貞雄
 
  印刷 浜松市山下町24 しゆう文社  



◇昭和33年10月 復刊11号  通刊94号
  郷土の民話  中村義太郎
 
  遠州横須賀城の編年  加藤貞雄
 
  遠州の切支丹燈籠  原邦英
  掛川市大日寺  
    横須賀 撰要寺  
    浅羽町 方松院

  中泉奉行所「廻状」2通と前島密  田辺寛
    中泉奉行 前島密 明治2.3~9
 
  米津地蔵について  渥美実
 
  印刷 浜松市山下町24 輯文社(しゅうぶんしゃ)



◇昭和34年3月 復刊12号 通刊95号
  特集:遠江和讃術詠歌集

  都田町の和讃  冨田準作
    遠州西行和讃  川西訓導和讃  三ヶ日町華蔵寺住職
    都田精霊和讃
 
  大日如来和讃  渥美実

  稲葉山平手監物公和讃  渥美実
     ひらてんさま 「平手氵凡秀」   

  遠江三十三所御詠歌  川上秀治
 
  犀ヶ崖大念仏和讃  川上秀治
    本多肥後守忠真戦没地碑
 
  袖ケ浦和讃及び御詠歌(下)  大村二郎
 
  万福寺黒衣地蔵尊和讃  田辺寛
 
  篠ヶ瀬増福寺の王薬師如来和讃  田辺寛
 
  油山寺薬師如来和讃  野末初江
 
  潮海寺薬師瑠璃光如来和讃
 
  活民院殿彰徳奉願和讃



◇昭和34年7月 復刊13号  通刊96号
  普門寺のたたきまつり  加藤貞雄
 
  かんからまち獅子舞について  袴田鷹郎
 
  磐田の鉈仏について
 
  写本「唐土○流○」
 
  雲立楠盆の由来  鈴木犀十郎



◇昭和34年9月  復刊14号  通刊97号
  夜泣石  袴田○○氏
 
  本興寺の建築   

  志留波の磯と贄の浦 歌 3説 
    御前崎白羽 磐田白羽 浜松白羽
 
  遠江国分寺瓦窯の考証



◇昭和35年1月  復刊15号  通刊98号
  金原明善
 
  庚申塔雑記  原邦英
 
  谷上の穴地蔵 

  ねんごう節分  小池誠二



◇昭和35年5月  復刊16号  通刊99号
  法多山田遊び祭りの歌詞について  山口直裁
 
  遠江相良と平賀源内  川崎次郎
    平賀源内遠州隠棲説
 
  アクセント  山口幸洋
    区分 浜松 湖西 白須賀 舞阪 新居



◇昭和35年11月  復刊17号  通刊100号 遠州大念仏
  特集 遠州大念仏
 
  P393 遠州大念仏分布図
       農村青年娯楽の域
       昭和5年遠州大念仏図
 
  遠州大念仏の源流を探る  宮田準作
    ① 虫送り 
 ② 雨乞い

  大念仏別伝  吉沢純道
 
 「トッタカ」  鈴木実
トッタカ = 大念仏
トッタカ = 取り霊?
        「珠なる霊をこの場所に取り寄せること」?

  大念仏の禁と当時の刑罰  小山正







☆「話し言葉の日本語」井上ひさし・平田オリザ 小学館 2002年 【再掲載 2013.7】

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◇平田オリザ
 劇作家・演出家 
    劇団「青年座」主宰 
  桜美林大学助教授
  1962年東京生 国際基督教大学卒  
  「こまばアゴラ劇場」経営


◇井上ひさし 
  劇作家・小説家 1934年生 
  「手鎖心中」で直木賞 
  「こまつ座」代表


◇話し言葉の時代を走る乗り物としての「せりふ」
  日本語論
  (1)書き言葉の文体
  (2)共通話し言葉
  (3)文字、表記法
 (4)外来語
  (5)敬語・差別語
  日本人はおしゃべり 
    陰口が好き   
  話し言葉は取り消せない
戯曲は文学か? 時代の主義主張か?
日本語をいかに強くするか、美しくするか 
    21世紀のキーワードは「美」
言葉のワークショップ 
    ドッジボール「場所の名前を言ってからボールを投げる」


◇主語・述語の演劇と助詞・助動詞の演劇
  話し手の立場を表現する「助詞」
  漢文 
     - 呼古止点(おことてん)
     → 助詞の発見
時枝誠記の文法 
     話し手・甲につく表現
「ねさよ廃止運動」と「ねはい運動」
     昭和33年鎌倉市腰越小学校「ねさよ廃止運動」


◇敬語の使い方・使われ方
  日本語だけではない敬語表現
    敬語
     = 待遇表現
 英語 プリーズ  
    仏語 チュトワイエ
歴史の中で「敬語」はどう変わっていったか 
    商業敬語全盛の時代
 「はい喜んで」-居酒屋
「お疲れ様」と「ご苦労様」の混同


◇「方言」を生かす演劇
  方言と標準語の二重言語生活  
  NHK「青年の主張」のおかしさ
 「標準化」への3つの方法
  三宅米吉
    ① 古語標準
② 全国方言を調べて一番多い単語を選ぶ
③ 今目の当たりにつかわれている言葉(東京山の手か京都)
平田オリザ 
    国語科で 
      ① ラブレターの書き方
② 嘘のつき方
まだ未完成の日本語
「方言」と言うよりも日常の話し言葉
     地域における言文一致


◇対話
 芝居のせりふと日常会話の違い  
     日常会話の中の70%が無駄な言葉
戯曲の仲のいい対話の条件 
    不意打ちの連続
      すべて「一人称」
新劇は対話から始まり対話で終わる


◇戯曲の中の流行語
  一生に使う語彙は3,4万語  
  年月に耐えうるせりふを書きたい 
  恐るべきスピードで日本語は変わっていく


◇戯曲の構造と言葉
  「忠臣蔵」に劇の構造を見る
  演劇で一番大事なのは観客がいること
  「人生に暗転はないんだよ」


◇戯曲の組み立て方
  登場人物の設定と種類  
    演劇のルールの言語化 
    ※ 芝居は誰のものか
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「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」浜松市博物館特別展 H27 ⑤(最終) /「思春期という節目」八ツ塚実 朱鷺書房 1989年 ⑥  【再掲載 2013.12】 [読書記録 郷土]

今回は、8月3日に続いて、
H27.11.1(日)~12.6(日)に浜松市博物館で開催された、
徳川家康公顕彰四百年記念事業特別展
「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」の紹介5回目 最終です。



特別展の紹介には


「若き家康が今川氏から独立し、三河国を平定したのち、今川領であった遠江
 国をいかに攻略し平定していったのか。そこには、遠江の国人たちの抵抗や
 恭順があり、家康や家臣たちが苦労して遠江国を平定し、天下取りの足掛か
 りとした歴史がありました。
 徳川家康公顕彰四百年記念の本年は、家康と、井伊直虎や飯尾連龍など遠江
 の国衆の資料を集めた特別展を開催いたします。」

 
とあります。




本日紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「松下氏 遠州国人松下加兵衛結之綱に秀吉が幼少の頃仕えたとされる」


・「徳川家康が遠江に侵入した際、最後まで家康に抵抗したのが大澤氏」


・「堀川一揆の際、家康方は2月25日宇津山城を攻め一揆勢は皆殺しにされた
  大澤氏が開城したところ、家康は旧領すべてを安堵するが、新居の代わり
  に呉松を与えたとの起請文。家康が新居湊を重視したからか」
「三河との通路を立たれたくないため、家康は遠江侵攻の際、大澤氏を厚遇
したのか」
- 一揆勢を皆殺しにするほど苦しめられたのに、なぜ安堵をとわたしは疑問
 をもつのですが、それほど船運が大切だったということでしょうか。


・「関東移封後は本多忠勝について上総国小滝(千葉県長生郡胆沢町小滝)にい
て、関ヶ原合戦を迎えた 」
- わたしの町は旧大澤領。菩提寺の創建は、本多忠勝の伯父本多忠真の嫡男
 菊丸とされています。何らかのつながりがあったのかと想像してしまいます。


・「大澤家は江戸時代、高家26家今川・吉良と同じ足利庶流に肩を並べた」




もう一つ、再掲載になりますが、八ツ塚実さんの
「思春期という節目」⑥を載せます。
保護者が節目を意識して、節目毎に子どもを見守ることの大切さを感じます。





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☆「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」浜松市博物館特別展 H27 ⑤(最終)

◇家康の遠江侵攻浜松在城時の国衆の動向 森田香司(静岡県地域史研究会事務局) 2
2 松下氏
遠州国人松下加兵衛結之綱(秀吉が幼少の頃仕えた)
→ 久野城主に取り立てられた
諸国を流浪した後遠江国の松下一族の元に父長則と共に戻ったか
松下一族発祥の地は三河国碧海郡松下郷

   松下氏遠江国での所見は寛正6(1465)年12月29日
松下氏は伊勢氏の被官の立場で遠江に住んでいた
松下一族は頭陀寺城に住み松下屋敷
いち早く徳川方についた
     都築秀綱も松下一族か 


3 大澤氏・中安氏・権太氏
大澤氏 
     出自は伝丹波国大澤郷(現丹波篠山市大澤)
     大澤氏・中安氏・権太氏は親戚関係
     戦国初期 
      「領家殿」
        = 村櫛荘の領家代官   
領家職を藤原北家支流特大寺家がもっており在地代官として
       浜松まで派遣されたのだろう 
        至徳元(1384)年以前
 最初は新津城(しづじょう)にいたと思われる
  その後応永12(1405)年愛知全国より堀江氏が荘内半島に入り
      堀江城築城

   戦国期 
     今川氏により堀江城が落城し堀江氏が逃走

大澤氏が堀江氏に替わって堀江城に入る
今川氏の被官
新居湊の支配も任される
宇布見の中村右衛門太郎も船の諸役免除(大澤氏の元で船運)
    
   永禄11(1569)年
徳川家康が遠江に侵入
 ←→ 最後まで家康に抵抗したのが大澤氏
堀江城籠城 + 山村修理らに命じて堀川一揆をおこした
永禄11年12月~翌4月  
       永禄12(1570)年正月~3月27日鎮圧
         2月25日宇津山城を攻め  
         一揆勢は皆殺しにされた
半分以上の船を奪う

   次第に厳しくなる 
    → 氏真の了承を得て開城 4月12日
    ◎ 家康起請文
       旧領すべてを安堵するが、新居の代わりに呉松を与えた
         = 家康が新居湊を重視  
宛先は大澤基胤・中安定安・権太泰長
         中安氏は大澤氏一族で家臣だったが、自らの知行地も有し
        ていた
         権太氏 - 北区三ヶ日町の一部をもっていた
   大澤氏一族
三方ヶ原合戦にも参加
大澤基胤娘も参戦

   三方ヶ原合戦の翌日 
     武田軍は堀江城まで押し寄せた
天候に幸いし追い返した「堀江城物語」

   大澤氏 
     慶長5(1600)年 旧領を安堵され旗本となった
基胤の子基宿(もといえ)のとき、京都の大納言持明院基久家が断絶
    の危機
     → 二男基定が養子に入った    
 ~ もともとは貴族の流れか?

   家康
     ◎ 三河との通路を立たれたくないため遠江侵攻の際厚遇したのか 

   天正16(1588)年
井伊直政と共に京都へ  
       従五位下に叙任 = 直政と同格
      ◎ 関東移封後は本多忠勝について上総国小滝(千葉県長生郡胆
       沢町小滝)にいて、関ヶ原合戦を迎えた  

戦後、要望が認められたのか旧領に戻り1550石
  翌慶長6(1601)年従四位下に昇任
◎ 家康の征夷大将軍宣下の典礼が京都で開かれた際(慶長
        8年1603年)、その一切を基宿が執り行ったという 
        → 近世の高家再興を果たしていく
      
   高家26家 
     ◎ 大澤家は今川・吉良と同じ足利庶流に肩を並べた
      
   近世初期の所領
     崎村櫛・和田・無木・上田・石丸・呉松・和地・伊佐治・佐浜・内山
     蔵松(現南区倉松町)  併せて1556石
      寛永期には2556石 
      宝永期には356石まで加増                                                                                                                                                                                             




☆「思春期という節目」八ツ塚実 朱鷺書房 1989年 ⑥  【再掲載 2013.12】

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◇自信を育てる(1)
□ひらがなばかりの生活記録
書くことを評価するのが学校だ

  どんな短い文章だろうが対話を書く。まともに。手を抜かずに。
~ 自分の文章 
      何をどう書いてもけなされたりバカにされたりしない
  

□母親を求める心 
  自信を失うようなことは一切しない


□悪循環を正す
問題は現状の中で解決すべきであると考える

原因が現状の中にあるのだからそれを改めて解決するしかない
タダシ  
    叔父宅での生活
叔母の献身的な指導
    → ◎ 子供は切り結んだ人間関係の質によっては、飴細工のように
       変わる。まるで違う人間を生きることになる。



◇大切にしているのか甘やかしているのか
□見せかけの親子ごっこ
「いいわけ」と子供を「かばう」言葉
→ 子供が学校へ来ない正当な理由を成立させてしまう


□贅沢の悲劇
おじいさん
   「甘やかすと人間はどこまでも腐ってくるものです」
  

□物や金で心はつなぎ止められない
 ◎ 社会が提示する魅力と学校が提示する魅力とがあまりにも異質で共通
   点がなさ過ぎるのです
  |
  快楽度指数  
    大人の社会の義務部分は完全に切り捨てて、楽しい部分だけを与えら
   れるのだからたまらない。意志もまた弱く、判断力の未熟な子供はひと
   たまりもない。

◎ 物と金によって気をひくことはたやすい。しかし、要求はいくらでも
   ふくらみエスカレートしていく。
  

□甘やかしは人権無視
金や物で子供の心をつろうとする魂胆は子供を見くびっていることに
  なる
家庭教育が音立てて「物と金」の領域に流れ込んでいる。
  家庭教育は子供を大人扱いすることだという錯覚が蔓延しつつある


◎ かつては子供の姿を見ることもなかった場所に幼い子供が両親に連れ
   られてやってくる。
    ~ しかもその多くが大人の遊び場
    × 一気に歓楽街へと子供を導き入れてしまった
  ・真夜中のモーテルの食堂 
        ・夜のカラオケバー 
        ・飲み屋
  今広く行われている家庭教育は確かに「世慣れた子」をつくり出すこ
   とには成功している

  レストランで堂々とメニューを開く。物怖じせずウェイトレスに注文
   できる。しかし、食堂のメニューをいくら堂々とめくろうとも、人権の
   メニューには 全く目覚めていない少年像は健全な感覚を具えた大人像
   とは大きくずれる。

◎「子供を大切にする」即「子供を甘やかす」図式がいかに誤っているかが
  なぜ見抜けないのか?その答えは簡単である。親に人権感覚がないからだ。
  その結果子供を「みくびり」「買いかぶっている」からである。

子供を見くびれば 
    … 甘やかしてしまう
→ 甘やかしは子どもの人権を粗末にしているのであって「大切にす
     る」こととは全く無縁な行為なのである。

トシ子のおじいさん
「子供の心は金じゃ買えやせんのじゃ」

  
□先生への突然の暴力
「登校拒否は三日が勝負」


□「捨てぜりふ」という刃物
一人一人が自分の心の中の「みくびり根性」をなくす不断の努力をしなく
 てはならない
子供が爆発したとき…
教員は → ・彼は今穏やかではない
・今は彼を穏やかにするときだ
・激昂をおさめてやらないと彼を傷つける

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徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」浜松市博物館特別展 H27 ④ /「ほめるな」伊藤進 講談社現代新書 2005年 ①【再掲載 2014.2】 [読書記録 郷土]

今回は、7月28日に続いて、
H27.11.1(日)~12.6(日)に浜松市博物館で開催された、
徳川家康公顕彰四百年記念事業特別展
「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」の紹介4回目です。



特別展の紹介には


「若き家康が今川氏から独立し、三河国を平定したのち、今川領であった遠江
 国をいかに攻略し平定していったのか。そこには、遠江の国人たちの抵抗や
 恭順があり、家康や家臣たちが苦労して遠江国を平定し、天下取りの足掛か
 りとした歴史がありました。
 徳川家康公顕彰四百年記念の本年は、家康と、井伊直虎や飯尾連龍など遠江
 の国衆の資料を集めた特別展を開催いたします。」

 
とあります。




本日紹介分より強く印象に残った言葉は…

・「飯尾氏『いのお』と読む」


・「江間兄弟が武田、徳川どちらにつくかで内紛
江間氏は家康の一家臣となって近世を迎えることになる。
  紀伊和歌山で紀伊徳川家に仕える」




もう一つ、再掲載になりますが、伊藤進さんの
「ほめるな」①を載せます。
ほめる教育が、ほめられなければ動かない子どもを生んでいるのではないか、
と思うこともしばしばあります。



<浜松のオリーブ園>

浜松にもオリーブ園ができました。
和Olieve 園のサイト





ふじのくに魅力ある個店
静岡県には、個性ある魅力ある個店がいくつもあります。
休みの日に、ここにあるお店を訪ねることを楽しみにしています。
機会があれば、ぜひお訪ねください。
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<浜松の新名所 浜松ジオラマファクトリー!>

  ものづくりのまちとも言われる浜松。
 山田卓司さんのすばらしい作品を 
 ザザシティ西館の浜松ジオラマファクトリーで味わえます。
 お近くにお寄りの時は ぜひ お訪ねください。






☆「徳川家康天下取りへの道-家康と遠江の国衆-」浜松市博物館特別展 H27 ④


◇家康の遠江侵攻浜松在城時の国衆の動向 森田香司(静岡県地域史研究会事務局) 1
□飯尾氏・松下氏・大澤氏
1 飯尾氏
① 出自 「いのお」と読む 鎌倉幕府三善義信の子孫 足利氏奉公人
     主に讃岐国・阿波国
       - 吉良氏との関係が深くなった一族が三河で家臣に
     ◎ 吉良氏の一族だった今川氏に協力することになり、文明年間に
      遠江初代飯尾長連 

② 歴代
長連 -賢連-乗連-連龍
為清
初代長連 
      - 今川氏に味方し文明8(1476)塩買坂の戦いで今川義忠と共に討死に
見付城を落としたが横地氏・勝田氏(?)らの反撃で討ち死に
     2代賢連(?~1522?) 
- 長連の戦功により浜松荘の奉行を吉良氏から命じられた
浜松荘 
         鎌倉時代に成立した荘園 
         吉良氏南北朝期にその地頭職
浜松市の南端部を東西に長い楕円形の荘園
「吉良殿御領」
            - 代官が大河内貞綱
   3代乗連(不詳)
  遅くとも文永2(1522)年には跡を継いだ
        - 引馬城主となり今川支配下
         浜松を中心とする寄親(?)となり、江間氏や松下氏を寄子
        にして合戦の軍役
今川氏の軍役
           天文18(1549)年には岡崎城三河国の政務
桶狭間の合戦にも従軍 
           それ以降に亡くなった
           1565年 連龍(子)が謀殺された
連歌師の宗長や宗牧とも交流
      4代連龍(?~1565)
氏真の三河支配の失敗 
          → 徳川家康と早くから気脈
永禄4(1562)年2月 尾三同盟 
           三州錯乱 → 今川三河支配瓦解
遠江国衆も今川氏に反旗
         永禄6(1564)年12月16日
           引間郷飯田で合戦
今川方 新野佐馬助・朝比奈康朝が討ち死に
頭陀寺城に籠城
~ 永禄7(1565)年3月まで戦うが決着つかず和睦
4月8日 家康・連龍会談-同盟
           氏真は再度引馬城を攻めたが落城できず飯尾氏と和解
永禄8(1566)年12月
           氏真が連龍を駿府に招く 20日
  飯尾屋敷で謀殺される
 駿府に行くように仲介したのは松井「強八」宗恒か
(妻が連龍の姉)
   連龍を失った引馬城
   氏真に反旗 ← 氏真が再度攻める
 飯尾家臣の江間加賀守時成、江間安芸守泰顕は家康
            に助け求め
 → 家康が安堵
◎浜松領 
            南端 寺嶋郷(現寺島町)~西端 舞阪郷(舞阪町)
飛び地 阿多古郷(室町期に吉良氏が獲得した所領)
総年貢 1200貫文超
氏真との戦いは長期戦に → 4月に再和睦
今川氏 江間兄弟に千貫文安堵(今川方に帰参)
永禄11(1569)年
江間兄弟が武田、徳川どちらにつくかで内紛

家康は三河から一気に遠江国安間村(現東区安間町)
             |
江間兄弟が喧嘩
             泰顕が時成を殺害  
泰顕も時成家臣の小野田彦右衛門に斬り殺された
→ 徳川方に開城
             (連龍後室の戦いはなかった もしくは永正年間) 

駿府に人質に取られていた母は駿府で殺され、時成
           の子・弥三一成は助け出されたが眼病
            ~ 一成は安堵
            江間氏は家康の一家臣となって近世を迎えることになる
             → 紀伊和歌山で紀伊徳川家に仕える   








☆「ほめるな」伊藤進 講談社現代新書 2005年 ①【再掲載 2014.2】

[出版社の案内]
「ほめれば人は伸びる」というのは間違いだ。
いま、教育現場では「ほめる教育」が常識になっている。子どもの意欲と自信
をはぐくむというこの理論のウソを指摘し、インタラクティブな真の教育の姿
を提示する

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◇蔓延する「褒める教育」
褒めることはいいことか 
    浅知恵 … 一面的,長期的な視野を欠く

事例
   ① とにかく褒める授業
  ② 褒める指導で金メダル 
       小出監督 2000年シドニー 保護者然
③ 試験でも褒める教授
④「○○子はいい子じゃない」
⑤「部下は褒めて育てよう」


◇教育の根本目的は自立の支援
「褒める教育」の骨子
  骨子
   ① 意欲を持たせる効果 
       うれしい気持ちが意欲に繋がる
   ② 方向付ける効果   
       フィードバック機能 
       適切な方向付け
   ③ 自信を与える効果  
       認められる 
        → 自信
   ④ 人間関係をよくする

  技術論から本質論へ

  長期的視野の重要性
  抜けているもの 
      ① 長期的視野
     ② 教育の根本目的に対する認識

  教育の根本目的は自立の支援


◇「褒める教育」は動物に芸を仕込む方法
  動物ショー
道具的条件付け
    E.L.ソーンダイク(米) 
      猫の実験 - 強化刺激
ペダルを踏むとエサ
シェーピング  
    道具的条件付けを積み重ね,動物に芸を仕込む方法
「褒める教育」は条件付けのテクニック
    状況 → 行動 → 強化
◎ 自立には明らかにマイナス

◎ 人の目ばかり気にする人間をつくる
   「褒める教育」は,道具的条件付けの方法によって子どもや若者を
     コントロールする育て方である
「よい-悪い」の評価の物指し 
     ~ 褒められなければ価値はない? 

  ◎ 評価の眼に包囲されて生きる今の子どもたち
他者の目と自分自身の判断のバランスこそ大切
     ↓
    ※ 子どもを評価漬けにする恐れ
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