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2024-10-11

柔道選手の回想を聞いてほしい 3


最後公式戦(夏季大会)は印象に残っている。毎年、県内で一番立派な総合体育館で行われる大会だった。梅雨時にある。

団体戦予選は、秋季大会と同じく4校によるリーグ戦だった。上位2校が決勝トーナメントに上がる。

当校の場合は、全国レベル高校と、それに準ずる高校と、平均レベル高校の3校での争いだった。前二者には、それぞれ0-5,0-4という散々な結果に終わった。T君は健闘して強豪校相手引き分けに持ち込んだし、ほかの選手一年前に比べたらずっといい試合をするようになっていた。

だが、勝負世界は厳しい。現実リアルビジネス世界でもそうなのだが、自分が成長しても、ほかのライバルもっと成長している。最後の三試合目は、確か4-1で勝ったのかな。これで、T君の世代にとっての最後団体戦は終わった。各リーグで上位2校だけが勝ち抜いて、決勝トーナメント進出する。当校は第3位だった。これで、本当に終わったのだ。

翌日には団体戦決勝トーナメントがあって、うちの学校と同じ市内のところが優勝した。N君が所属する学校だった。広島県は、伝統的に野球柔道が強い。サッカーもそれなりである

大体のスポーツ広島市にある学校県内最強なのだが、柔道場合は、広島市福山市にある高校県内二強である。いずれも全国に通用する実力を有していた。



記憶に残っている試合の話をする。その翌週には個人戦部門があった。各階級に分かれて戦い、優勝者全国大会に出場する。T君は、81kg級で出場した。

1回戦は、尾道にある高校選手と当たった。確か、今年放送アニメ『ぽんのみち』の舞台の近所にある学校である。俺は、第一試合が始まる前にT君の打込練習に付き合っていた。体を温めておくのだ。体を超動かすスポーツ場合は、事前のウォーミングアップが欠かせない。無論ハードモードである

T君の試合が始まる直前だった。

「勝つとか、負けるとか考えるな。試合邪魔だ。柔道のことだけ考えろ」

と言った。T君は「やり切ってきます!」と言った。

やがてT君が呼ばれて、試合場の前と、開始線の前での二度の礼が終わった。

「始め!」

という審判の声とともに、相手と組み合った。練習で教えたとおり、大内刈りと小外掛けを繰り返しやっていく作戦を採っていた(T君は左利きの左組み。多くの場合ケンカつの組み手になる。鏡写しの組み姿勢)。彼の運動神経だと足技の威力は弱いのだが、技をかけ続けていれば指導は取られない。

相手が技を仕掛けてくると、T君は隙を見て――寝技の態勢に移行した。その時はたしか相手が低くしゃがんで投げる背負い投げに失敗したのかな。

すると、T君は相手に密着しつつ、真横に体重を預けるようにして、釣り手だけで送り襟締めを決めた(相手の背後から横襟を掴んで、手首の尺骨でグイっと頸動脈を圧迫する)。

相手がたまらず仰向けになったところで、両足を絡めた縦四方固めに移行すると、相手は全く動けずに25秒が経過した。一本勝ちである

よく、ここまで強くなったと思った。彼と出会った頃は、紐に巻かれたチャーシュー柔道をしているように思えた。あまりにボテボテとした動きで、才能がないのは明白だった。

だが、T君はここまで寝技を鍛えた。彼にとってのエクスカリバーだった。この頃の彼は、俺と寝技乱取りをしても1分以上は持ちこたえることがあった。

さて、次の試合だが……例の強豪校の子だった(N君)。T君と同じく高三で、改めて見るとスマートな体形だった。背丈はやはり185cmはある。あの細長い足から繰り出すカミソリのような内股で、T君は何度も吹っ飛ばされてきた。

おそらくこの時点で、すでに名門大学からスカウトを受けている(記憶によると、その後明治大学に進学している)。

試合が始まる直前、T君と最後の技の打ち込みをして、最後大内刈りで投げさせてやった。試合場に送り出す時、背後から彼の両肩に手を置いた。肩甲骨のあたりが1年前より逞しくなっている。そのまま、グイっと前に押し出すようにして闘魂を注入した。

試合前の二度の礼の最中、対戦者であるN君の表情を見た。高校三年生とは思えないほど大人びていた。歴戦の兵を見ているようである高校三年間をスポーツに捧げた者の目つきだった。子どもの頃から、数多くの試練を乗り越えてきたのだろう。こういう野獣の眼をしている若人は少ない。

試合場の外には、そのN君の学校の仲間と、あとは監督コーチ陣が控えていた。これといった表情はない。自分の教え子の初戦を観察するのは指導者の基本である。それだけだ。



実は、この時の試合ビデオ撮影している。映像は悪いのだが、できるだけ実況風に説明してみる。わからない単語があった場合は、とりあえずこちらの、

柔道チャンネル柔道用語https://www.judo-ch.jp/terms/

       柔道の技https://www.judo-ch.jp/technique/

をご覧になるといい。

別に不明単語表現があって気にしなくていい。読んでいるうちになんとかなる(と思われる)。以後、試合が終わるまでT君はTと表記する。N君はそのまま。紛らわしいからな。

さて、二度目の礼が終わった直後だった。試合場内ではTとN君が向き合っている。そして、審判が両者を確認する――試合開始の宣言があった。

「始めっ!」

Tは左組みで、N君は右組みだった。

N君は殴り抜くようにして釣り手を取ってきた。横襟のあたりだ。Tも相手の前襟を掴んだが、どこか心もとない。柔道力に差がありすぎて、まともに襟を掴めないのだ。厳しい印象の組み手だったが、後は引き手を握ることができれば……。

次の場面では、同じタイミングで袖を握り合った。中ほどの位置だった。相手ちょっと嫌がったかもしれない。かくして両者の組み手が完成する。ケンカつの組み手である

Tは大内刈りに入ろうとしたが、難しい様子だった。対戦相手と体力差があると、そもそも技のモーションに入ることすら難しい。両者、ジリジリと畳の上で移動を重ねていく。N君が技に入る様子はない。シード枠で第一戦目だった。慣らし運転という印象を受けた。

これは舐めプではない。トーナメントの初戦というのは、綺麗に勝って勢いをつけるものだ。何事も始まり大事である

重心移動を重ねていく両者。ここで、Tが小外掛け、そして大内刈りに入ったが……全く効いていない。もう一度リズムを取って、トン、という畳を蹴る音が聞こえた(ビデオ映像では聞こえないが、俺は確かに聞いた)。Tが足指の裏で畳を蹴り込んで、再度の大内刈りを放ったのである

今後はバッチリ効いていた。左腕で相手の肩を制していたのが大きい。ふくらはぎを刈り取られるようにして、N君が後ろに後退していく。数歩だけ後ろに下がったところで、技が解けて動きが膠着した。

Tは、そこから双手刈りに変化して、相手を押し込んで寝技に持っていこうとする――が、相手は両手を使ってTを上下に振って無効化した。Tの体が揺れている中、N君の大内刈りがしっかと掛かると、真後ろに倒されるのをどうにか我慢した。間合いを取ろうとしたが、遅かった。

N君は、Tの体を引き出して崩しつつ、股下に飛び込んでいた。全身を躍動させて、右脚でもってTの骨盤を跳ね上げた――内股、炸裂。

会場がどよめいた。それくらい、鮮やかな技の入りであることの証明だった。Tの身体が浮いている。が、まだ投げられてはいない。右足をケンケン状態にして抗っていた。歩幅のあるケンケンをしていた。

最後に、ダメ押しとばかり身を捨てたN君に巻き込まれる格好で、畳に落ちていく。

「……!」

主審動作は、会場全体の視線に応えるかのようだった。右腕を緩やかに振っている――ノーポイントだ。背中がついてないので当たり前だが。

会場の反応を気にする素振りもなく、それから寝技の攻防を見守っていた。Tが上からN君を攻め立てるが、「待て」がかかる。

次の組み手でもそうだった。お互いに十分な位置で組めているとは思うが、相手の圧に押されて、Tは身動きが取りにくい。N君は、けん制気味の大内刈りで攻めていた。タイミングを合わせて内股を狙っている。

ある瞬間だった――N君が内股を仕掛けた。すると、Tの動きがおかしかった。ジャンプするようにして真横に飛んだのだ。相手の振り上げた足がぶつかって、コロンと畳を転がった。背中がついている。

「技あり!」

N君にポイントが入った。背中はついていたが、勢いがなかった。

その後も厳しい展開が続いた。Tは相手とガッシリと組み合った後、てんで効かない大内刈りを繰り返していた。そして、N君はそれを上回る勢いで足技を仕掛けてくる。

Tは、それからも真横にジャンプするような動きをすることがあった。対するN君は、いい位置の組み手を取って大内刈りを仕掛けている。大内刈り→内股に繋げるのが狙いだ。

Tは正面から大内刈りを受けるも、後ろに飛んで腹ばいになって回避した。「待て」がかかった。その後、Tに指導(※ノーポイント)が与えられた。

「始め!」

ここで、N君が奥襟を掴もうとしてきた。奥襟というのは文字通り、横襟よりも奥になる。あなたが今着ている衣服で言うと襟首である

Tは抵抗を見せるも、最初は横襟を掴んでいた敵人の右手は、ついに奥襟に差し掛かった。Tは体を後ろに下げつつ……なんと、内股を放った!

N君の奥襟を取る力を利用しようとしたのだろう。ただ、懐には入れていたが全く効いていない。発想はよかったが、素の柔道力の違いがこういう所に出る。威力が無さすぎて、N君の方が戸惑っているように見えた。

今は、互いに横襟を握り合っている状態だ。ケンカ四つなのは変わりない。さっきとは、うって変わって静かだった。N君は小刻みに大内刈りを繰り返している。投げる気はない。けん制だ。Tも、何かを狙うかのように釣り手を小刻みに動かしている。

N君が、釣り手を下方向に絞ったかと思うと、Tの胸をいきなり突いた。一歩下がることになり、また前に踏み出そうとする。その時、Tの胸を小突くようにしてまた大内刈りを放った。Tは嫌がって、猫背気味に距離を突き離した。そして、背筋を真っ直ぐに戻した直後である――直立姿勢。一瞬の静止。

N君は脱力している。俺はつい、「あ……」と言った。技に入る準備ができている。もうダメだ。直観である

一瞬だった。N君は釣り手と引き手を利かせつつ、軸足としての左足で、Tの股下に飛び込んだ。体を密着させつつ、右足を高らかに振り抜いた――内股、一閃。

「技ありいいぃーーーーッ! ……抑え込みッッ!!」

審判の声が響いた。

彼らを視認すると……TがN君を横四方固めで抑え込んでいた! とともに湧いてきたのは、会場からのどよめきと、賛辞の拍手だった。

「なにしとる、N。まだ逃げられる! 右に回転せえ、手を、手を突っ込め!!」

N君の高校監督が、試合場の外から怒号交じりのアドバイスを送っていた。不完全ではあるものの、N君は確かに抑え込まれている。

何が起こったのか。一応、撮影したビデオ画面をベース説明すると……あの時、N君が振り上げた右足は、Tの身体を跳ね上げることな空振りし、宙をひと回り以上して畳に落ちていったのだ。返し技――内股すかしである

Tがやったのは、まず一番に跳ね上げられるであろう左足を、真後ろに隠して回避するという古典的な内股すかしだった。あとは、N君が内股を空振りして自らの威力で吹っ飛び、空中を一回転半して腹ばいで畳の上に落ちた。そして、Tが電光石火の早業で抑え込んだ。以上である

「てら、全力で体重乗せんだよ。あと半分、半分!」

 ※あと10秒抑え込んだら合わせて一本

気が付くと、横四方固めはガッシリ入っていた。N君の動きは著しく制限されている。しかし、彼も体力は相当ある方だ。寝技が解けないならばと、背筋で跳ねるのを繰り返すことで、徐々に移動して……試合場外への脱出成功した。

審判の「解けた!」の宣言の瞬間、試合場の端から抑え込みタイマーのブザー音が聞こえた。これは……!?

「待てー、待て……!」

審判の声は焦っていた。

開始線に戻った両者。ここで主審が、副審のところに行って協議を始めた。N君の学校監督コーチ陣は、ギラついた目で審判団を睨んでいた。タイマーを見ると、残り試合時間は1分半だった。

戻ってきた主審は、「技あり」のジェスチャーを取った後で、上方向に手を振った。ノーポイントに訂正する、という意味だ。

残念だった。あれは内股すかしだったが、投げ方は確かに変だった。N君が技に失敗して、自分で体勢をコントロールして腹ばいに落ちたようにも思えた。

正直、一本でもよかった。今の柔道では、スーパー一本といって、技の威力ありすぎて腹ばいに落ちた場合、一本になるルールがある。当時もその概念はあったが、ルールブックに明文化されているわけではなかった。

その後、併せて審判は、T君が寝技で抑え込んだことによる「技あり」の宣言をした。

「始め!」

N君は即座、猪突の勢いで駆けた。右手でTの奥襟を奪いに行こうとするが――パシン、という音がすると、なんとTが相手柔道着の背中を掴んでいた――奥襟の、さら真下の部分である

N君は、前傾姿勢になった。彼もTの奥襟を掴んではいるが、動きはない。静止している。

「なにをしよおる、はよう技に入れ!!」

相手校のコーチ狼狽していた。

わかっていない。N君は動かないんじゃない、動けないのだ。Tの腕力は本物だったようだ。

「ようだ」というのは、俺がTと乱取りしていて、背中を取らせたことは一度もないかである

体捌きも、総合的なパワーも、ありとあらゆるテクニックも、俺の方がずっと上だった。よって、奴のパワー(ベンチプレス160kg,背筋280kg以上)を体感する機会はなかった。

とにかく、N君は前傾姿勢のまま動けないでいる。その状況で、Tは不意に大外刈りに入った。N君のふくらはぎに刈り足が当たって、ケンケン状態で後ろに下がった。

Tが大外刈りをやめると、すぐさま、今度は連続して内股に入るのだった。釣り手で背中を掴んだまま、大腰みたいにしてN君の体が浮いたが……やはり柔道力が足りない。そのまま両者、畳に沈み込んだ。

いや、違う! Tはこれを、寝技を狙っていた。寝姿勢に入った途端、N君の片腕を取りつつ、巻き込むようにして後ろ袈裟固めに入ろうとする。N君はさらに体を転がして回避した。防御姿勢になる。

Tは亀状態になったN君の上に乗ると、帯を掴んだ。すると、体を捨てる重心移動によって亀状態をひっくり返した。そのまま縦四方固めに持っていこうとする。

再び、N君は腹ばいになって逃れるも、ここでTは――中腰の姿勢になり、両腕で相手柔道衣を握った。胴衣の腕の部分と、下袴の太腿部分をそれぞれ握っていた。そのまま、立ち上がってN君を両手で宙づりにすると――畳の上にゴロンとひっくり返した。

「抑え込み!」

タイマーカウントが始まるが、抑え込んで十秒もしないうちに解かれてしまった。試合の残り時間は、あと30秒ほどだ。

いい作戦だった。まともに立ち技勝負してN君に勝てるはずがない。先ほどの背中を掴んだ組み手は本当によかった。寝技にもっていくための算段のひとつである背中を掴んだ後は、なんやかんやで相手を動かし続ければいい。

背中を掴むのに成功してからは、立ち技ガンガン打って、早々に寝技に引き込んで、審判の「待て」がかからないように動きまくるのだ。それで時間を稼ぐ。

彼は、これを狙っていたのか。作戦だったのか? そんなことは……あるかもしれない。まぐれはこんなに続かない。彼の脳裏にこの流れがあったのだ。

主審は、選手2人が開始線の前に立つと、柔道衣の乱れを直すようポーズを取った。

そして、N君に対して指導を与えた。一瞬、彼の表情を見たが、恐れを感じていた。眉のあたりが強張っている。恐怖を感じる時の表情だ。これから自分がどうなるかわからない、そういう恐怖を感じている。

会場がどよめいていた。大番狂わせのニオイを感じ取っている。

「始め!」

N君は脱兎のごとく、Tの奥襟を取った。対するTが背中に手を回すよりも早く、伝家の宝刀、内股に入った――不十分な組み手だったが、Tの股下に入った足がガッシリ効いている。浮かないようにするだけで精いっぱいだった。

「ヤアァァーーーーーーーーーーッ!!」

N君は咆哮を上げつつ、内股から大内刈りに変化した。自分の後ろに投げる技から、前に投げる技への連続――完璧タイミングだった。

「終わった……?」と思ったその瞬間、Tは自らの体をコマのように回転させて、腹ばいになって畳に落ちた。寝姿勢で向き合って、怒涛の勢いでN君を組み敷いたかと思うと、縦四方固め……? いや、違う。それはフェイントであり、腕がらみ(アームロック)を極めようとしていた。審判が真上から様子を見ている。関節技が極まるか極まらいか、際どい局面だった。

刻一刻と、時間が経過していく……Tの作戦が功を奏したのだ――試合終了のブザーが鳴った。

「それまで!」

ここまで四分。実時間で約十分。お互いによく戦った。ポイントは同点である。この場合は、主審×1と副審×2による旗判定で勝敗を決する。

試合用のタイマーが置いてある長机から審判員が手慣れた動作紅白旗を取った。元の位置まで戻ると、主審は、副審を見やってアイコンタクトを取った。全員、どちらに旗を上げるか決まったようだ。N君が赤旗で、Tが白旗だった。

紅白2本の旗を手前に持ち上げる審判員――白い旗が2本だとTの勝ちである。会場の一角は、静かだった。かくいう俺も心臓バクバクだった。僅かな時間のはずなのに、長く感じられる。

「判定ッ!」

赤2本、白1本という事実を確かめ主審は、溜め息を吐きながら白い旗を仕舞うと――N君の方に勝利の手を掲げた。

この試合を見ていた観客は、ほぼ全員が選手2人に拍手喝采を送っていた。スタンディングオベーションである。いい試合だった。勝ち負けとかどうでもよくて、とにかくいい試合だった。

俺はしばらく其処に立っていたが、T君の後を追いかけてトイレの方に向かった。

次です

https://anond.hatelabo.jp/20241011192840

柔道選手の回想を聞いてほしい 1


増田の人に聞いてほしいことがある。昔の記憶だ。

子どもの頃から俺はおかしかった。別に、変な子どもとか言われたことはない。むしろ褒められることの方が多かった。学校の成績はイマイチだったが、運動芸術の成績はよかった。

自己紹介必要最小限にしたい。今は四年制大学スポーツを教えてる。幼少期から柔道をやっていた。中学校全国大会で結果を出して、スポーツの名門高に進学して、同じく名門大学に進学して、卒業後はパチンコ機器メーカー入社(スポンサー契約)してプロになった。

柔道プロ制度はない。あくまで「それ」で食ってるという意味

それが、もう20年以上前だ。人生はあっという間である

回想を始めたい。パチンコメーカーの次の転職先を主題に据えて話をする。

新卒入社した、そのパチンコメーカーとの契約期間は3年だった。最終年度になると、次の道を考えないといけない。一応、次期も残れるだけの実績は出したものの、新しい、次のステージに挑戦しようと考えていた。柔道は、野球サッカーに比べると現役でいられる時間が少ない。体をたくさん動かす分、選手生命が短いのだ……。

当時は、全日本の強化選手(A指定)だった。合宿にはフルで参加していて、オリンピックに出場する連中とも交遊があった。あの頃は、井上康生全日本主将を務めていた。彼が不在の時は俺が副として動くこともあった。ウザいかもしれんが、ちょっとくらい自慢させてくれよ。こういう場で文章を書く機会は滅多にないんだから

※ところで、この日記はとても長い。ゆっくりまれることを推奨する。

次のステージについて悩んだ結果、選んだのは……学校先生だった。大学時代に保健体育教諭の免状を取っていた。いざという時に潰しが効くようにと、大学時代のコーチが勧めてくれた。今でも感謝してる。

どこの学校にしようか思案したところ、やはり地元がいいと思った。出身高校柔道部の監督相談したところ、広島県の東の端っこにある高等学校指導者を探しているということだった。

さっそく面談アポを取り付けてくれて、その高校の現監督と面会すると、すごく驚いてた。まさか強化選手高校教師転向するなんて思ってもみなかったんだろう。

トントン拍子に話は進んで、その翌年度から、俺はその高校の保健体育の教諭(兼柔道顧問)として赴任することになった。

指導者としてのミッションは『古豪復活』だった。その高等学校は、昭和40年代まではすべての体育会部活インターハイ活躍していた。

だが、『何か』があって進学校路線へと方針転換し、スポーツ推薦枠を徐々に減らしていったところ……平成に入る頃には、ほぼすべての部活が市内大会ですら勝てない状況になっていた。それでいて、進学校路線にも失敗していた(学内の最優秀者の進学先が広島大~関関同立くらい)。

そんな状況で、柔道部を立て直すのが俺に課せられたミッションだった。正直難しいと思われたが、チャレンジする価値はあると思っていた。



とまあ、そんな経過で柔道顧問としてキャリアスタートを切ったものの、部内はひどい状況だった。柔道部も地区大会まりとは聞いていたが、冗談抜きでレベルが低かった。心・技・体以前の問題である

部員の多くが高校から柔道を始めていたし、運動センスが抜群の子はいなかった。そして、柔道の何を教えても、どれだけ丁寧に教えてもダメだった。心構えは、まあいいよ。徐々にハートを鍛えていけばいい。ただまず、基礎体力の時点で問題があった。

例として、ベンチプレスだと80kgを上げられる子が1人しかいなかった(それは乳首が大きい子で、皆からあだ名苗字2字分+チクビだった。当時は高二)。ほかの子は概ね40~60kgといったところか。マトモな高校選手であれば、体重70kgくらいの子でも……ベンチ100kgは難しくとも、訓練すれば半年以内に達成できる。

800m走にしてもそうだ。なんと、150秒を切れる子が1人もいなかった。ゼロである(参考までに、当時26だった俺の記録がほぼ130秒。高校の頃は118秒がベスト)。

こんな状況で、この部員達約15名(+女子マネ3人)を、最低でも中国大会まで導かねばならないという……正直、難しかった。柔道プロとして言わせてもらうと、不可能に近い。

難しいのはそれだけじゃない。どれだけ心構えを説いても伝わらなかった。なんというか、やる気とかいレベル以前に、人としての器量というか……そういうのが圧倒的に足りてない。

困難な物事でも、ひとまず取り組んでみるとか、目標達成のために努力を積み重ねるとか、そういう志をもって挑んだ経験がないのでは? と感じるような子ばかりだった。

柔道の子だけじゃない。学校全体でそうだった。本校は、「中高一貫教育により、6年間を通して自ら考え、自ら動き、目標へと達するだけの力を陶冶できる人間を育てる――」と入学パンフレットで謳っていた。そんな生徒は皆無だった。惜しい子はいたのだが。

校則は厳しかった気がする。月イチの全校集会の後、生徒らが体育館前でクラス単位で並ばされて、髪型制服など、生徒指導担当教師陣が細かいチェックを行う。俺の出身校も、服装マナーは厳しい方だったが、ここまでではなかった。

こちらの高等学校偏差値は、40~45くらいだった。そこまで高い方ではないが、かくいう俺も、中学高校テストは平均50点未満しか取れなかった。里香なんかは14点だったこともある。国語濃緑濃緑すら怪しかった……。

柔道青春を捧げていた。それ以外はどうでもよかった。勉強の成績は最低だったけど、高校大学も、ほかのスポーツ特待生と一緒に先生方の温情で卒業させてもらった。

でも、確かにバカだったけどさ。当時、柔道関係書籍は年に五冊以上は読んでたし、毎月発行の『近代柔道だって、全ページの隅々まで目を通してた。

何が言いたいかというと、向上心である。たとえ下手くそでも、誰かに馬鹿にされようと、負けまくったとしても、そんなの関係ない。もっと上に行きたい、勝ちたいという気持ち向上心がない若者未来なんてあるか。

俺は油断していた。百年以上もの伝統がある高等学校だったら、多くの生徒はきっとポテンシャルがあるに違いないと高を括っていた。見通しが甘かった。

それでも一生懸命に教え続けた。暖簾に腕押しだったけど。指導を続けたのだ。怒りを我慢する場面は多くあった。指導者として悔しい思いもした。

当然、結果は出せなかった。他校との合同練習も、ローカル大会公式大会の結果も散々だった。おおよそ、彼ら柔道部員はこんな調子だった。

試合の度に勝敗分析シートを作るよう求めたが、半数は作らない

・提出があっても、ほとんどが小学生中学レベル

・合同練習では中学生に普通に負ける

公式大会直前の練習に来るのは部員の6割

テスト間中柔道場に基礎トレに来るのは1人だけ

 ※ベンチプレス80kgのチクビの子最後設備の測定限界の160kgまでいった。

  彼は柔道ではなくウェイトリフティングの道を歩むべきだった。

俺のストレス有頂天だった。我慢できないところまで来ていた。

なぜ、こいつらはやる気がないのだろうか。成績がいいとか、地頭があるとか、機転が利くとか、そういう能力の話ではなくて――"生きる力"とでも言えばいいのか。そういうのがなかった。



ストレスを抱えていた折、ついにやってしまった。あれは秋頃だったか。県大会があったのだ。高三が引退した後、最初にある十一月の新人大会だった。

大会は二日間あって、初日団体戦予選だったと記憶している。当校の成績はひどいものだった。リーグ戦があって、出場校が4校ずつに分かれて戦うのだが、普通に全敗だった。最初に戦った学校は、数年に一度は全国優勝者を出すほどのレベルだった。全員もれなく数十秒以内に瞬殺された。

チクビの子は、四十秒くらいは戦えていた。対戦相手は、彼と同じ高校二年生で、81kg級のスラッとした体形の選手だった。俺の記憶だと、ケンカ四つでガッチリと組み合った後、チクビの子バタバタ大内刈りをしかけた。全く効いてなかった。

その直後だった、内股で吹っ飛ばされていた。相手の右脚が彼の股下に入ったのを捉えた次の瞬間、その肉体が空中二回転半して畳にめり込んだ。

かに戦った2校も、全国レベルに準ずるところだった。そのうち1校は、毎年安定して県内ベスト4に入る伝統校だった。もうひとつは、偏差値70の私立高校で、全国有数の進学校である。なんと、この学校は週に2回しか柔道練習をしないらしい。それでいて、団体戦個人戦も、毎年ほぼ県内ベスト8に入る成績だった。

この2校には、当然コテンパンにやられた!……いいところがほとんどなかった。三部トーナメント行き確定である。一日目の全試合が終わった後、怒りの気持ち我慢しつつ部員全員に静かな檄を飛ばした。惨めな気分だった。

成果があったといえば、上のチクビの子(T君)が1回だけ勝った。体重相手の方が重かった(T君は当時85kg、相手は100kg級)。人生で初めての指導者としての喜びだった。

彼は寝技が得意だった――厳密には、運動神経が絶望的だったので寝技しか残ってなかった。寝技には運動神経は関係ない。ほぼ努力で上手になる道ができる。相手と密着している分、計算がしやすいのだ。立ち技だと、コンマ数秒の遅れで技の威力に変化が生じる。

毎日練習では、何度も何度も得意のパターンを繰り返した。俺が何回抑え込んでも、関節を極めても、締め技をかけても、決して諦めなかった。送り襟締めや袖車締めで落とした(※頸動脈の圧迫で意識がなくなる)回数は50回を超えている。

夏場にあった合同合宿だと、T君が他校の選手寝技で抑え込まれている時、竹刀背中や太腿を何十発もぶん殴ったっけ……「どうしてそこで力を抜くんやっ!?」と何度も指導した。

T君はそれに応えた。土中から這い出たばかりのカブトムシとか、成虫になろうとして藻掻いているハナムグリ芋虫みたいだった。精いっぱい、本気で動き回っていた。とにかく、妥協だけは絶対しないように教えた。

振り返ってみると、彼に柔道を教えていた期間は一年半もないんだな。たったそれだけである。ヤツは諦めなかった。妥協することはあったけど、俺の指導最後までついてきた。

そりゃあ、T君が情けない試合をした後だと、ブン殴ったことが何度もあったよ。鈍くさいし、柔道はボテボテしてるし、平々凡々の才能だった。でも、あいつはスゴイ奴だったよ。柔道を選んでなければ、別の道でインターハイに出ていたかもしれない。



さて。県大会一日目が終わって、部員一同は広島市にある古びたホステル宿泊することになっていた。ただ、女子マネ×3と引率教師である俺は別のホテルになった。

一応は、監督意見だった。この3人は一年生で、最初の泊まりなので配慮必要ということだった。最初宿泊が、あの年季が入ったボロホステルというのは、確かに……と俺も感じた。

女子マネ3人のうち、2人は双子だった。二卵性だから顔はそこまで似てない。お医者さんのご子息と聞いていた。このうち妹の方(マネ子とする)は、相当マジメな子だった。よく気が利くし、頭の回転が早いし、学業成績は最優秀である学内では清楚キャラで通っていた。実際、練習前には必ずお茶くみをしてくれる。

ほかの2人にしても、こんな弱小柔道部のマネージャーを半年も続けてる時点でひた向きだと思う。普通だったら辞めてるよ。半年間でほとんど勝ててないんだから。県大会個人戦だって、誰一人として出場できなかった。

責任を感じていた。柔道部が結果を出せない原因は俺にだってある。それが申し訳なかった。それで、姉妹のうち妹の方だけ、俺の宿泊部屋に呼んで話をすることにした。

この不甲斐ない状況について話を聞いてみると、彼女も思うことがあるようだった。会話をしたのは数十分である

マネ子の意見

・たしか柔道部は勝ててない

・でも私たちが選んだ道だから。途中でやめない

・新入生への部活説明の時に、柔道部が一番楽しそうだった

私たちサポートできるところはぜんぶやりたい

先生が話を聞いてくれてうれしかった

マネ子は、半分涙を流していた。こんな子がマネージャーで本当によかった。

ところで、俺がいた高校柔道部は、全国でも上から数えた方が早かった。いわゆるガチのところである女子マネージャーなど存在しようがない。いや、男子校から本当に存在しようがないのだが。

気が付くと、マネ子の髪を撫でていた。それから何を思ったのだろうか、そのままグイっと彼女の頭を、俺の肩のあたりまで引き寄せた。変な雰囲気になってた。マネ子は無抵抗だった。左手で胸のところまで引き寄せると、暖かい感触があった。

の子の顎を右手の指先で持ち上げるようにして、キスをした。抵抗はなかった。ベッドの上に押し倒して、後は流れだった。体のいろんなところをキスしながら触っていったけど、本当に無抵抗だった。たまに、俺の肩を猫の手でちょんと押すくらいだった。そのままずっと、ペッティングみたいなことを続けた。

このくらいの年齢の子って、あんまり柔らかくはない。女の子はやわらかい、といった世間イメージは正しくはない。柔らかいのは大人の女性である未成年はそこまで柔らかくはない。

などと思いながら、ちょっとずつ服を脱がしていった。その時のマネ子は、体操服のような簡素恰好だったのを覚えている。すぐに脱げた。

胸は大きくない。でもきれいな形だと思った。お互い、完全に裸になる前に明かりを消した。それから、肢体のいろんなところに触れたり、舐めあったり、くすぐったりした。マネ子は、俺に合わせて動くこともあったし、微動だにしない時もあった。全体的に反応は微かだった。

ひどいことをしている認識はあったが、それでもセックスの相性はよかったと思う。彼女は、最初の方は緊張してたけど、少しずつほぐれてきて、会話をしても大丈夫になった。お互いに唇をすぐ近くまでもってきて、囁くように会話をした。

マネ子は気分が乗ってきたみたいで、行為最中にいろんなことを言ったり、いろんな体位をやってくれた。最後の方はイチャイチャとしていた。会話を思い出してみる。

「ねえ。せんせー。ゴム持ってます?」

「持ってる。財布の中」

「なんで持ってるんですか笑 彼女さんいるんですか?」

「いないよ」

「えー、だってH慣れてるじゃん」

「慣れてないよ。下手くそだろ」

「……ほんとですか?」

「うん、本当」

うそだー」

「本当だよ」

マネ子にまたキスをすると、態勢を変えて、ベッドの中で真上に乗っかった。

顔を近づけて、両手でマネ子の頬に軽く触れて、しばらくずっと舌を絡め続けていた。舌を抜いた時、彼女がまっすぐ延ばした舌先で唾液がうねるみたいに躍動した。それからマネ子にまっすぐに乗っかって行為をした。俺はマネ子を知ったのだ。

行為が終わると、この子は暗闇の中で俺の眼をずっと見つめていた。俺はそのままベッドを出て、もう一度、財布のところまで歩いていった……。



次の日の朝、初めてあの子を見たのはホテルの朝食をとるスペースだった。ビジネスホテルよりは少し立派なバイキング方式だったっけ。

マネ子は、別に何でもないって顔をしてた。当時の俺は若かった。罪悪感はそこまでなかった。マネ子は本当に普通の様子で、俺や、マネ子の姉とも普通に会話をしてた。

の子たちとの朝飯を済ませてから、サッとチェックアウトをして、みんなを(広島市内の実家から借りてきた)自家用車に載せて会場に向かった記憶がある。

大会二日目は、これまでの中で最大の成果だった。リーグ戦で全敗した関係で、三部トーナメント行きになったのだが、なんと……ここで優勝してしまったのだ!! 嘘ではない、事実だ。ノーシードからきっちり4回勝って、優勝トロフィーを手にした。

T君が活躍したのもあるが、ほかの選手も本気で頑張っていた。あれだけ練習したというのに、リーグ戦での完全敗北が響いたのだろう。心に火がついたといっていい。三部トーナメントの出場校について、選手の半分ほどが白帯だったのもある。

柔道場合、一試合時間野球サッカーといった団体スポーツに比べて短い。試合必要なスペースも100㎡以下である。このように、各校の試合回数をできるだけ多くする配慮ができるのである

ここでいったん切る。

次です

https://anond.hatelabo.jp/20241011192838

2024-10-04

高校の頃バレー部の着替えみた

体育館ステージ横の部室で着替えてくる女子

体育館ステージ掃除してこい」と先生に言われる自分体育館ステージから部室が通り抜けられて上から丸見えなのわかるわけないやん。普通にステージ清掃してたら女子高生が着替えててびっくりよ。

2024-09-29

国政選挙が決まると自治体はどうなるか?

市町村の規模によるが数か所から数十の選挙会場のため体育館公民館その他を予約し(先約?知らん)投票用紙を発注選挙人名簿を精密に作成しあらゆる機材書類を整えて(市町村によっては首長選議員選も同時にやることになる)全ての会場に7から20名ぐらいの市町村職員を割り当てて(もちろん全員休日の朝6時半から出勤して20時までぶっとおしだ)開票作業にも数百人割り当てて(もちろん深夜に及ぶし投票事務と掛け持ちも珍しくない)これら数百人も選管職員も翌朝はいつもどおり08時30分出勤するわけ。

来月やるって?運動会かぶる学校、大変だね。

2024-09-18

anond:20240918103003

体育館みたいなすえた臭いは、新品だけど保存状態がわるく、

うっすらカビが生えている証拠

量販店の鮮度の良いシャツならともかく、臭いがするものは洗ったほうがええよ。

まり、買った服を洗うべきかどうかは臭い判断できる。

買った服って洗濯してから着るもの

何も気にせず新品のシャツを個包装はいで着たらやたらなんか体育館みたいなすえた臭いがする…

2024-09-15

anond:20240915075810

外で縄跳びやりたいけど恥ずかしい

どこかい場所いかな…😟

(借りられる体育館は遠い…

2024-09-13

田舎隠キャの夏祭り

祭り前日まで

毎日

夕方から〜21:00

笛:ぴーひゃら

太鼓:どんどこどんどこ

人声:きゃっきゃ

陰キャ「(うるせえな…何時だと思ってんだ…体育館でも借りてやれよ…)」

祭り当日

祭り開催期間中天気予報

雨!

雨!!

!!!


陰キャ「(リア充ざまぁw w wこれでゆっくり休めるw w w)」

現実

祭り開催期間中天気予報

小雨…

陰キャ「(あー…決行するんだろうな…)」

2024-09-09

anond:20240903003245

追記:営内生活について

衣食住についてのコメントがいくつかあったので、食住周りについて追記してみる。

食事について

朝食は6~8時、昼食は11~13時、夕食は16~18時まで。夕食の時間が少し早い。

自分好き嫌いが多かったので、嫌いなメニューとき売店レストランで食べたりカップラーメンを食べたりしていた。

住について

部屋は3~5人の構成喫煙者非喫煙者で部屋が分かれている。喫煙者の部屋はタバコ吸ってもOK

部屋替えは1年に1回。苦手な人と相部屋になるとちょっとしんどい

自分は苦手な人と相部屋になってしまい、なるべく部屋にいないようにしていた。(基地の外に部屋を借りた理由の一つでもある)

インターネットはない。

10時消灯だが、自習室電気をつけてOK勉強したい人はここに集まる。

↑↑追記ここまで↑↑

自衛隊は約7年勤め、今から15年くらい前に辞めた。

これを見て個人的に良かったことと悪かったことを書いてみたい気持ちになったので残してみる。

まず前提として、所属する基地職種、人によって全然違うので、あくまでn=1として読んでもらえると。そして多分まったく参考にならないと思う。

ざっくりだが、航空自衛隊飛行機の整備をしていた。

良かったこ

お金を使い切ってもなんとかなる

自衛隊は衣食住が基本タダである自分お金の使い方が荒かったので、支払いで給料がなくなることが度々あった。

それでも、基地の中にさえいれば、ご飯は一応3食毎日でてくるし、見た目を気にしなければ支給された服を着ていれば良い。

業務時間が短い

まず1日の流れだが、6時起床7時過ぎに出勤、退勤は17時だ。

休みは2時間あり、午前と午後に休憩が30分ずつが基本の流れ。

17時退勤と書いてるが、16時過ぎくらいには仕事の片付けをし始めるので、トータルたいした労働時間ではない。

もちろん仕事上、急な故障などで勤務時間が長くなることはある。逆に故障が何もなく、検査スケジュールの都合で丸一日仕事が入らないこともある。

ちなみにこれは職種でかなり違う。めちゃくちゃ大変なところもあるし、もっと楽なところもある。

時間がある

業務時間が短いということは、時間があるということだ。

自分ストリートダンスにはまったので、昼休みや退勤後はずっと練習していた。

基地の中に体育館整備場など、練習場所に困らなかったことも良かったこである

休みの日になると、スケボーしたりBMXやったりする人もいた。

ちなみに周りで1番多かった趣味パチンコ

悪かったこ

変わり映えのない仕事

自分は2〜3年でほとんどの仕事を覚えた。これはけっこう頑張った。

あとは分隊長以上になるか、幹部になるかまではずっと同じ仕事をやり続けなければいけない。ざっくり20年くらい。それがしんどくて辞めた。

給料は安い

ボーナスいれてギリ300万/年超えるくらいだったかなぁ、自分場合

20代だと250万/年~350万/年くらい。30代中盤でようやく400万/年超えてくるかなぁ。

この辺はちょっと曖昧なので、「自衛隊 俸給表」とかでググるといい。

ちなみに自分が入ったときは、夏と冬以外に春ボーナスがあったんだけど、途中でなくなった。

社会人経験の積めなさ

ここでは社会人を、他社(者)からお金をいただく仕事従事すると定義する。

この定義で考えると、自分が携わっていた飛行機の整備はまったく社会人経験値がたまらない。

ずっと自衛隊を続ける人には不要だと思うが、いずれ辞めるならこの経験の無さは足かせになる。

資格はとれない

自分がとった資格フォークリフトだけ。(使うことはなかった)

基本的に、自分のついた職種関係する資格はとれるが、そうじゃない資格は基本取れないと思っていい。

フォークリフト職業訓練の一貫で取った。自衛隊福利厚生みたいなもん。

30~40年くらい前は、自分職種関係ない資格でも取らせてくれたらしいよ。

その他

申請事や決まり

外出や車の購入、外にアパートを借りる、門限など、いちいち面倒ではあるものの、こればっかりは慣れる。なので特に悪かったことに挙げるほどじゃないかなぁ。

非常呼集

早朝いきなり叩き起こされる非常呼集。なかなかダルいものではあるんだけど、8割くらいは前日に情報が入るから、心の準備はしておける。なのでこれも特に悪いまでは思えず。

ざっくりこんな感じ。

2024-09-07

小学生の頃に遭った痴漢(仮)について

タイトルの通り、小学生時代に遭った痴漢やそれに類することについてと、書き出してみて思ったこと。

1回目 飲食店にて

初めての痴漢(仮)は、小学校低学年の頃だった。

当時の私はピアノを習っていて、発表会に祖母と母が来てくれた。おろしたてのワンピースフリルのついたソックス、少しだけかかとの高いよそゆきの靴、いつもより豪華に結ってもらった髪にはリボンかわいい格好ができて嬉しかったのを覚えている。

発表会は市民ホールを貸しきって、昼すぎまでかかっていたと思う。早起きしたぶんお腹はペコペコで、遅めの昼食は近くて回転率がよくすぐに食べられるお蕎麦屋さんを選んだ。

昼すぎでも土日だったからか、お客さんが並んでいた。回転率のよさは知っているので、並ぶのは苦にならない。眠気も出てきていささかぼんやりしつつ、だらだらと前に並ぶ人へ続く。

すると突然、ぐいっと左手を掴まれた。反射的にそちらを見上げると、知らないおじさんが私の手をとり握手するみたいにぎゅむぎゅむ握っている。とても、とても驚いた。けれど声は出なかったし、ぴくりとも動けなかった。知らないおじさんは「可愛かったからつい」と言って、手を離して店を出て行った。

母たちは「びっくりしたねぇ」などと何だか和やかに言っていたが、私はほんとうに驚いて、つまりショックで、その後どうしたか覚えていない。もちろんかなり古い記憶なので、単純に時間経過によって忘れてしまっただけかもしれないけれど。


ほんとうに驚いたとき人間悲鳴も上げられないしすぐに逃げもできないのだな、と何だか絶望に近い気持ちになったことは覚えている。アニメドラマ刑事ドラマが好きでよく観ていた)のようにはできないのだ、と。

かわいい」は褒め言葉のはずなのに、なにも嬉しくなかった。なんとも言えないモヤモヤが澱のように腹の底に溜まった。

プライベートゾーンを触られたわけでもなく、何なら一緒にいた親族問題視したふうでもなく、法的に痴漢には分類されない体験。今でも一般的になんと分類するものか分からないままだ。それでも私の中でだけは、初めて遭った痴漢として記憶している。

2回目 通学路にて

小学校中学年の夏。

私の地元田舎で、徒歩通学だった。当時はとにかく読書が好きで、通学中は図書室で借りた本を読みながら歩くのがほとんどだった。二宮金次郎みたいに。

学校帰り、季節もあってまだまだ明るい中、いつも通り本を読みながら一人でひたすら歩く。毎日毎日そうしているから慣れたものだった。

車が1台ぎりぎり通れるくらいの、田んぼと畑と農家然とした少し古めの民家ばかりの道で、ふいに後ろから声をかけられた。自転車に乗った男子学生だった。中学生か高校生か、とにかく同じ小学生でないことしかからなかった。親や学校先生以外で年上と話す機会もそうなかったし。

喉が乾いたので飲み物を分けてもらえないか、と言われた。夏なので肩に水筒をぶら下げていたのだ。大人なのに変なの、とは思いつつ、水筒のコップ代わりの蓋になみなみ注いで渡した。

水筒お茶を飲むところをぼんやり眺めていたら、コップを持つ男子学生の手がぶるぶる震えていた。おそるおそる口をつける。そのさまを見て、なぜだか急に、明確におかしいと感じた。一気飲みはせず、謎に丁寧にお茶を飲んでから返されたコップ。水筒に戻しながら、どうやって帰ろうか不安になった。自宅までそんなに距離がなかったからだ。なぜかついてこられるのでは、と思った。その間も、ぽつりぽつりと男子学生からの問いかけが続く。いつもこの道を通るの、とか、何年生なの、とか。

今の私は何でそこで律儀にと思うが、その時は走って逃げるとか急に話を切り上げるとかい選択肢がなかった。失礼だと思ったからだ。誰か帰路の小学生でもいれば、知らない子でも混じって帰ったと思う。でも誰もいなかった。人っ子一人。えー…とか、うーんと…とか枕詞みたいに付けたふんわりした回答をしながら、子供なりに頭はフル回転していたはずだ。でも、打開策が思いつかなかった。

少しして、私たちがいた道沿いの民家から住人のおばさんが出てきた。知らない人だったけれど、何してるの、と声をかけてくれた。それを見て、男子学生は何も言わず自転車を走らせて去っていった。その背中が私の帰り道と同じ方向だったのを見届けて、まだ呆然としたままの私は、なんにもないです、とだけ答えた。知らないおばさんが「さっきの子は知り合い?」と言うので、首を振る。ちょっと回り道してから帰りなさいね、と言われた。私もそのつもりだった。

この体験も、お茶をくれと言われて分けただけで何もされていない。痴漢ではない。なので何と呼べばいいかからないけれど、自分の中ではその他の痴漢と同じカテゴリに分類して記憶していると思う。そういう系統の嫌な気持ちだった。

3回目 図書館にて

これも小学校中〜高学年頃。

私の両親は離婚しており、母に引き取られていた。夏休みに父のところへ泊まりに行っていたときだった。

例によって本が好きなので、県立図書館へ連れていってもらった。いっちょまえに児童書卒業していたので、見る本棚一般書架。父はAVコーナー(ネットカフェみたいに区切られたブースで各々映像資料が観られる。アダルト資料ではない)にいるというので、一人でゆっくり本棚を眺めていた。作者なんかは知らないから、タイトルや表紙のデザインを中心に何となく気になった本を探す。児童書に比べてかなり数が多いので、背表紙を眺めているだけでも楽しかった。タイトルしか読んでいないのに、いくら読んでも読み終わらなくて。

ふと、足元がぬるい感じがした。見下ろすと人が床に手をついてしゃがみ込んでいた。年齢は分からなかったけれど、男の人であることだけは分かった。

図書館の本棚上下左右ギチギチに本が詰まっている。下の段の本を見るには、学校ミクロマンとイジられていた私の体躯でもしゃがみ込まなければならなかったので、下の方が見たいんだなと思った。図書室で人気の本棚にみんなが密集するのはよくあることだ。と思ったけれど、はぁーーー、と長い息を膝に吐きかけられているのを見て、一気に過去の嫌な気持ちが呼び起こされてしまった。気付いていないふりでじりじりと距離をとり、別の本棚へ移動する。

何だったんだろう、と心臓がばくばく言うのを落ち着かせているうちに、暑いから息が上がっていただけでは?という気になってきた。そう思うと何をビビっていたんだろうと馬鹿らしくなって、また端から背表紙を読んで、読んで、時には取り出して表紙やもくじを眺めて。

じきに、また足元に違和感があった。今度は微妙にぺたぺた?ぬるぬる?する。見下ろすと先ほどの男の人がしゃがみ込んで、私の膝辺りを舐めていた。他人の舌が肌を這うことなどないし、誰か分からないし、理由も分からないし、どうすればいいかからなくて、なのに気付いていることを勘付かれてはいけないと咄嗟に思った。心臓はまたばくばく暴れて、目の前の本を適当に抜き取り「これにしよ」なんてわざとらしく声に出して、父のところへ逃げた。

この時に借りたのは『エリコ』という本だったと思う。いま調べてみると表紙が記憶と違っているけど、女の子モノクロっぽいイラストの表紙だったはず。父の家に戻ってから読んだけれど、分厚い上に当時の私には内容が難しくて、とても難儀した。話が全く分からなくなってから飛ばし飛ばし読んで、なんだか図書館での嫌な気持ちフラッシュバックするような描写を目にして、結局ギブアップした。主人公が高級娼婦らしいので、確かに当時の私には早すぎたし「猥雑と戦慄がからみあう、嗜虐と倒錯近未来バイオサスペンス引用元:BookLive)」はあんなことの後では取り合わせが最悪だった。今までの人生で読み始めたのにギブアップした本はこれと『ドグラ・マグラ』だけなので、すごく印象に残っている。

この体験一般的にも痴漢に入るのではないかと私は思うけれど、そのときの私には分からなかった。知らない人に舐められて驚いたし怖かったのに、誰にも言えなかった。一緒にいたのが母だったら、もしかしたら言えたかもしれない。正直、相手と同じ性別である父には言いづらいと感じた。自宅に戻ってからは、今度は今更だと思って母にも結局は言えなかった。

4回目 通学路にて

4度目は小学校高学年。

さすがに生きているだけでも変な目に遭うことはあるのだと理解していた。それに、そういう場面では声も出ないしパニックになって機敏に動くのは難しいことも。

私は護身術として極真空手に通うようになっていた。ビビって声が出ないし動けないなら、度胸をつければよいと思ったからだ。流派だの何だのはよく分からないままだけれど、男子に混じって毎週通った。練習体育館で行われていて、フローリングの上で拳で腕立て伏せをするのが大嫌いだった。骨が痛すぎるし、未だにフローリングでやることではないと思っている。

それから、通学路も勝手に変えた。2回目のときに使っていたのは車1台でいっぱいの道幅だったが、片側1車線ずつの道だ。さらに少し行くと複数車線の道もあるけれど、遠回りになるのでこちらばかりを通っていた。徒歩通学だしショートカットたかった。車通りはやはり少ない。

この時も学校からの帰り道だった。一人で帰っていて、道路の向かい側に停まった白い車から声をかけられた。運転席の窓を開けて、男性小学校へはどっちに行けばいいかと尋ねてくる。あっちです、と指をさすと、地図で教えてほしいと大きな紙を広げた。道路を挟んだままだと見えないので、道路を渡って運転席の窓から紙を覗きこむ。それは確かに地図だったけれど、地図と腹との隙間から陰茎が見えていた。数センチの隙間から、手で擦って見えたり隠れたりする陰部。

相変わらずショックではあったけれど、またか、という諦観もあったように思う。私はやはり気付いていないふりをした。努めて地図だけを見て、現在地も分からなくて、「地図読めないけどとにかくあっちです。ずーっとまっすぐ道なりで左側にあります。私はそこから来たんだから間違いないです」というふうな回答をした。

習い事があるからとその場を駈け出して、ないと思ったけど一応追ってきていないのを確認して、座り込んだ。心臓は毎度のようにばくばく言っていたけど、走ったから当たり前だなと思った。前よりも怖くなくなったし、毅然と振る舞えた気がするからたぶん空手効果はあった、と思いながら自宅へ帰った。今回もこのことは誰にも言えなかった。

思うこと色々

そういうわけで、私が小学生ときに遭った痴漢やそれに類するものは覚えている限り4回だ。多いのか少ないのかは分からない。

もちろん、中学生でも高校生でも大学でも大人になっても何かしらは遭った。それでも一番覚えているのがこの小学生時代。今やすれた30代だけれど、私も子供の頃はさすがに無垢だったのでショックが大きかったのだと思う。


どう気をつければいいのかというと、正直私は分からない。嫌な言い方だけれどもはや事故みたいなものから。防ぎようがないという意味で。ただただ、こういうことをする人がいなくなってくれればいいのだけど。

一つだけ。もしもこんなことがあったと言われたら、ちゃんと聞いてあげてほしいとは思う。

中学にあがってから路上で知らない人に突然キスされたことがある。グレてイキって気は強く成長した私は、黙り込んでいた小学生時代とは違ってすぐに学校に報告した。とにかく腹立たしかたからだ。分かることはすべて話した。場所とか、相手風貌とか、原チャだったとか。それらは全校放送で流れた。

おそらく親にも連絡が入ったのだと思う。その日の夜、養父(母は再婚した)にリビングへ呼びだされた。本当なのかと聞かれたので、本当だと答えると、場所地図で描けと言われた。不審に思いながら自宅から中学校への道順を描き、ここ、と丸をつけると、嘘だと言われた。こういう場合被害に遭った場所から描き始めるのが心理学的に普通だそうだ。私としては通学中に起きたのだから理にかなって描きやすい順番だったのだけど、そう言われた。心理学なんて分からないので反論もできなかった。原チャの車種はなんだとかも聞かれたけれど、私が知っている中での形や大きさで最も近い名称が「原チャ」だっただけで、詳しくは知らなかった。グレ友達2ケツで乗せてもらったやつくらいにしか認識していなかったから。養父趣味ハーレーがあったので、バイク中途半端に出したのもよくなかったのかもしれない。

そうして私の虚言であったとされ、おそらく学校へも連絡したのだと思う。保健室登校しても、教師がどこかよそよそしかった。あくまで私の感覚なので、実際のところは分からない。

ショックだった。折り合いの悪い養父であっても、もはや養父側の人間で信用していないと自分では思っていた母であっても、なぜだか報告すれば信じてくれると思い込んでいた。

初めて報告したらこうして狼少女にされてしまったので、前述のとおりその後も何度も変な人に遭ったけれど、誰にも話していない。

今でも覚えているので、やはり他の家庭、いわゆる子供(年齢は問わない)をもつ家庭では子供を信じてあげてほしいと思う。様々な要因で恒常的に嘘をつく子供がいたりするらしいのは知っているけれど、嘘でなかった場合に取り返しがつかないからだ。私のようになってしまう。独身の私が言うのもおかしいけど、子供は健やかにつべきだ。大人になったら嫌でもすれてしまうのに。

この文章は、職場男性から小学生にあがった娘の親バカノロケを聞かされてぶわっと思い出したまま書き殴った。

電車通学が珍しい地方小学生だった私でも、4回。0回の方がいいに決まっているので、こんなことがどこでもありうるから気をつけてあげてほしい、と言おうと思ったけれど、職場の人に実体験を話すのは憚られたので。初めて表に出して少しすっきりしたかもしれない。

2024-09-04

【速報】中学校階段の踊り場から転落 女子生徒か 警察などが当時の状況調べる 大分

大分平和やな

デカニュースがない

女性が転落したのは佐伯市内の中学校です。消防などによりますと4日昼前、学校関係者から女の子体育館の2階にある階段の踊り場から落ちた」と連絡がありました。

女性は生徒とみられ、ドクターヘリ搬送されました。容体は分っていません。

2024-08-31

サッカー場無くても避難所足りてるな

まちなかにスタジアムを建ててしまえば電車バスうごかないので開けても無駄なんだよな

近隣住民は最寄りの集会所へ行けばいいし

体育館も近くにあるんならそこ使えばいいし

2024-08-29

anond:20240829212014

実際、駅伝なんかはそろそろ体育館内での開催を検討する時期かなって

2024-08-23

ああ なんか

現在6時を少し過ぎました。

面白いことを探していますか?

もう1時間ほどでお迎えの時間ですね。

面白いことを探していますか?

体育館まで送ってください!

その後、

2024-08-21

夢で、知らん女と結婚させられそうになって逃げた

結婚式の前に

体育館くらいの広い会場で

その女と一緒に映画を見る事になって

怖くなった俺は

トイレに行くと言って逃げたんだが

その結婚式スタッフ黒服逃走中ハンターっぽい)に追いかけられて

必死に逃げ続けて

目が覚めて

本当に良かった

2024-08-17

体育館の周りやけに混んでると思ったら聞いたこともないジャニーズグループライブやったで

2024-08-13

夏休み

夏休みってサイアク

子ども毎日家にいる

うるさいしちらかすし邪魔

昼間の家は私の楽園なのに

税金払ってるんだから責任持って学校で預かってくれないと困る

なんだよ夏休みって

教室エアコンあるじゃん

体育館もつければいいじゃん

登下校?スクールバス走らせなよ

1ヶ月も家庭に押し付けるとか無責任すぎない?

2024-08-10

陰キャ ミーツ 陽キャ

俺の趣味ロードバイク。もちろん陰キャ

社畜に与えられた休日

暑くなる前にいつものコースを走っていた。

体育館で何かの大会があるらしくキュッキュという音が聞こえてくる。

バスケだろうか?と思いつつ走っていると

一人の青年に声をかけられた

「その自転車って二人乗り出来ないっスか?」

は?っていう顔していると

「前に置いて行かれたんスよねー」

おそらくアップで走っているのだろう

見るとウエーブのかかった髪をした芳賀健司(古)みたいな細身のイケメン

やはりあれはバスケなんだろうと思った(偏見

陰キャの俺はもちろん「う、あ…」という言葉にならない返事をして通り過ぎた。

全然嫌な気はせず

陰キャの俺が陽キャの光に照らされ少し明るくなった気がした。

見ず知らずの人間に平気で声をかけられる、

同じ人間なのになぜこうも違うのか

そんなことを考えながら

サイクリングロードを走り

家路についた。

2024-08-08

再任用を拒否された

はてなブックマーカー三巨頭のダイダラボッチさんと、ブクマカ良心であるミヤウチさんからコメントいただきました。

望外のしあわせです。あの世に行ったら自慢しようと思いますありがとうございました😊

(以下本文です)

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私は62才であるとある地方都市で、公務員として約36年働いてきた。生まれ故郷だ。

地元、そう、本当に地元だ。保育所から高等学校まで、ずっと地元である。(地元にある大学で行きたい)大学はなかったので、大阪府内に進学することになったのだが。

それから民間で三年ほど働いて、地元市役所採用試験を受けて入庁した。

いいことも嫌なこともたくさんあった。思い出深い職場である時間が過ぎるのはあっという間だった。

ずっと土木建築仕事をしてきた。道路造りに、水道に、都市計画に、施工監理に……少しの間だが、まちづくり仕事もした。思い出が蘇ってくる。もっと写真を撮っておけばよかった。



本題である。定年延長により、公務員定年退職はしばらくの間、2年に1回になっている。

私が定年になったのは61才になる年度である民間企業誕生月に退職になるのが一般的だが、公務員場合は年度末まで在籍できる。

今年の3月末をもって分限退職辞令を受け取り、退職日には労働組合行事退職者一同での職場巡りを行い(※有給である有給が残ってない人は人事がわかってて見逃してくれる)、最後市長ポケットマネー退職者のための小宴会が催され、皆それぞれに挨拶をして――私を含めた有志は、翌年度からも再任用(あるいは再雇用)されて働き続ける――はずだった。

タイトルにあるとおり、私は再任用の対象にならなかった。再雇用NGだった。

2023年の秋頃だったか、再任用の希望票を人事に提出した。その後、返送されてきたのは「再任用は不承認」なる文言の書かれた通知が1枚だけだった。

理由によると、総合的な事情により再任用できないらしい。同じ階にある労働組合職場委員会を通じて確認したところ、この階の職員だけでも数名が再任用されなかったということだ。

はてなユーザーであればご存じかと思うが、一応説明しておく。

民間企業では、「雇用年金接続」という観点から年金支給となる65才まで退職者を継続雇用する義務がある。例えば、60歳定年制採用する企業場合、65歳までの再雇用法律上義務であり、再雇用拒否原則として違法である

では、公務員場合はどうかというと、こちらも原則として再任用をすべき~という旨の総務省通知が平成25年3月に出ている。

内容を要約すると……

公的年金報酬比例部分の支給開始年齢が段階的に60歳から65歳へと引上げられることに伴い、無収入期間が発生しないよう国家公務員雇用年金接続を図るとともに、人事の新陳代謝を図り組織活力を維持しつつ職員能力を十分活用していくため、当面、定年退職する職員公的年金支給開始年齢に達するまでの間、再任用を希望する職員については再任用するものとすること等を内容とする閣議決定をした」

ということだ。

【参考URL

平成 25 年3月 29 日総務省通知)

https://www.soumu.go.jp/main_content/000216510.pdf

停職6月の懲戒処分を受けた者の再任用)

http://www.rilg.or.jp/htdocs/main/houmu_qa/2015/43_winter02.html

 

ただし、この通知はあくまで国から地方自治体への技術的助言であり、法的効力があるわけではない。

組織からその価値がないと判断された職員だと、再任用はされないことになる。

私は、36年間ずっと、このまちで働いてきた。

そこまで目立たない中国地方地方都市ではあるが、このまちが気に入っている。

できれば、ずっと働きたい、もっと働きたいと思っている。

労働組合上記の再任用拒否相談したところ、今後の団体交渉前の当局とのやり取りにおいて、本件に言及いただけるとの回答が執行からあった。だが、望みは薄いようである。こういった当局対応は、何年も前から続いているからだ。

市役所にとって不要人材は、再任用(再雇用)しない。それが人事当局方針である



実際のところだが、私は確かに不良な職員であった。

私は怒りやす人間であり、周囲に迷惑をかけたこともある。若い頃は上司と反りが合わず、反発して死のイベント無断欠勤したことがある。なんてことをしてしまったんだろう。あのイベントに出ていればよかった。

日常仕事においても、市民業者と言い争いになることがよくあった。

感情の振れ幅が大きく、職場の人に迷惑をかけた。用地買収仕事の時にも、地権者との交渉がうまくいかなかったのは私のせいである。

査定が低かったのは間違いない。でも、私は私で、このまちが好きで市役所職員仕事を続けていた。もうちょっと働いていたい想いがある。

仕事とは別の方面になるが、二十代の頃からずっと組合活動をしていた。

土木建築職場委員会はずっと仕切っていたし、反核平和の火リレーメーデー自治労の定期大会その他の行事などは、40代になって体にガタが出るまで前線に出ていた。

平和の火リレーの時は、市立総合体育館の前にある大きい道路をまっすぐに進んでいったっけ。本当に懐かしい。

一番、血気盛んな時期だと……国と県が合同で実施する泊まり込みの研修があった時、私が朝のラジオ体操時の国旗掲揚係になった時だった。私は、つい大声で主張したのだ。自分平和にかける想いを。

あの時は、江田島にあった国立青少年自然の家だった。集会室での私の言葉は、十数年前の日記に確かに記録してある。

「皆さん。申し訳ありません。これは研修中の職務ではありますが、私は日本国旗を掲揚する係にはなれません。太平洋戦争引き起こし被差別部落問題を長年放置してきたのは日本政府です。人権侵害象徴である、その政府が作った国旗を掲げることは、平和を愛する者として到底できないのであります!」

と、研修参加者50人以上の前ではっきり告げたのだ。これは、当時の労働組合における一般方針ひとつであった。

今では思う。広島県全体の研修の時なのだから、この時ばかりは組合方針に反してもよかったのではないかと。

実際、研修が終わった後で人事当局に呼び出された私は、総務部から増田さん。悪いけど辞めてくれるか?」と言われた。国か県かはわからないが、クレームがあったらしい。

だが、やはり血気盛んだった頃の私は、組合にも相談したうえで、基本は一人っきりで人事当局と戦った。少しばかりは助けを求めたこともあったが。

最終的に、処分ではなく厳重注意に留まった。組合が助けてくれなかった場合、本当に辞めされられていた可能性がある。



愚痴ばかりで申し訳ないのだが、これでも反省している。

私が悪いのだ。私は仕事に対して真摯に向き合ってきた。本気でやってきた。それでも成績が悪かったのは事実であり、その時期の上司の方々の温情に賜れたことに感謝している。

仕事は本気でやっていたけれども、周囲への配慮が足りなかった。令和になっても、今でいうパワハラみたいなことをしていた。

あの時、いつだったか。令和元年のことだ。

税務の子が当時、私が働いていた施工監理(兼庶務管理)の部署に来ることがあった。土地課税評価のことで、私が依頼していた文書を届けにきたのだ。

その文書には誤りがあった。その時、私は怒鳴ってしまった。今でも反省している。後悔の念を込めて、できうる限り思い出してみる。

確か、私はこんなことを言った。

「お前、まちごうとるぞ。小字(こあざ)がなかろうが、字がっ!! なしてないんならあ、おい」

「え……どういうことですか」

「水吞町だけじゃなかろうが、さらに、その下に水~(※龍だったかもしれない)という小字名前がなかろうが」

「すいません、つけ忘れました。打ってません」

「なんでそんな大事なもん、付けわすれるんならあ、おい」

「すいません」

「お前、法務局にこれ出してみろやあ~、恥ずかしいどお!!」

「ごめんなさい……」

恥ずかしいのは私の方である若い子に対して、こんなに失礼なことを言ってしまった。

その次の週に同僚から聞いたのだが、その女の子うつ病になり、職場に来ることができなくなったという。

元々、抑うつ気味で元気がなかったらしい。私が怒鳴った金曜日だけでなく、土日にあったイベントでも動員があり、その子仕事ができず辛い思いをしたという。

ただ、私にも原因があるのは明らかである。本当に申し訳ないと思っている。

の子は、労働組合を通して聞いたところだと――翌年に単純事務労働として税務の仕事に復帰したが、なかなか調子が戻らず、結局は新卒2年目で退職したとのことだ。



後悔先に立たず、という言葉がある。私の場合がまさにそれだ。

仕事でヘマをしてるだけだったら、まだ再任用されたのかもしれない。

しかし、それだけではない。私が他者の信頼を損ねる行為を繰り返したからこそ、こうなったのだ。

できれば、今からでもまた市役所で働きたいよ。でも、その資格がないことも重々承知している。

たとえば今、私は市役所で働いていた頃の思い出を書いてるけれども、守秘義務に反している可能性がある。それでもいい。罪があれば償おう。これも責任の取り方というものだ。

私は罪を犯した。犯し続けた。それで再任用されなくなった。仕事人生の責任を、こんな最悪なかたちで取ることになった。

あれは今年の1月だったか。後輩と一緒に現場に出るため、廊下を歩いていると、部長級の職員が前からやってきた。

その人は、正面にいた私に向かってこう言ったのだ。

なんや増田。お前、まだ辞めとらんかったんか。はよお、辞めろや!!」

後輩が見ている前で、こんなことを言われてしまった。恥ずかしかった。

でも、しょうがないのだ。私はずっと、禄でもない職員だった。

から、こんなことになっている。



最終勤務日のことだ。

労働組合主催する職場巡りの会が終わり、最後職場に帰って、デスクに座ってしばらく待ち、定時を迎えた時のことだ。

定時のチャイムが鳴って、2~3分くらい後だったか。私は、カバンを抱えてまっすぐに職場を出た。

事務所にいた同僚連中には、「じゃあの~」と軽快な口調でさよならを言った。みな、私に「お疲れ様でした」と返してくれた。

しかし、ひとつだけやっていないことがあった。最終勤務日の前日、職場の親睦会の若い幹事職員に言われたのだ。

増田さん。最後に僕が花束を渡すので、退職スピーチをお願いします。その後記念撮影しまから、残っておいてくださいね!」

と、しっかり伝えられ、私はOKの返事をしている。

にもかかわらず、こんなことをしてしまった。チャイムが鳴ったら逃げるように、すぐに家に帰ってしまった。

スピーチなどしたくなかった。再任用されなかったこんな私がスピーチをしても、恥ずかしいだけだと思っていた。

自分に負けたのだ。彼の思いに応えられなかった。



最後になるが、もし増田利用者の方で思い当たるフシがある方は、どうか職場では自重してほしい。

他者の信頼を損ねる行為ばかりしていると、私のように情けない老後を過ごすことになる。この日記ひとつ警句になってくれたら望外の幸せである

明日からは、またはてな匿名ダイアリーのイチ利用者である。また面白い日記楽しい日記をたくさん読んでみたい。

ありがとうございました。

2024-08-01

今日震災が起きたら

暑さで死ぬよね。比喩で無く。

最近夏になると想像してしまうんだが、この時期に震災起きて、電気使えず体育館にすし詰めとかなったら、どれだけの人数が生き残れるんだろう。

ライフライン寸断されて水届かなかったりしたら目も当てられない。

こう言う時の震災グッズってなんかあるのかねぇ。冷えピタみたいなやつ買っとくにしても家族4人分で10数日となると大量になるし。発電機とかしかないのかなぁ。

2024-07-29

    令和5年11月27日頃に、AIの電源を切られて、晴生が寝ている間に狼狽して、バクサイで、やっぱり自分の為だったか、と書き込んだところ、お前が筆頭という返信があり、

  これが定めじゃ、という断末魔書き込みがあったが、折から延岡市体育館解体があり、11月24日に、247万円の障害年金を使い込んでいたことが福祉事務所のケース記録の

  地区担当員の高橋採用した、とかの事情が重なったものと解される。但し、この国の裏事情なので、だれがどんな理由でそれをしたかは分からない。

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