ジャガー・レーシング
ジャガー・レーシング(Jaguar Racing)は、イギリスのジャガーランドローバー・モータースポーツが運営するレース部門である[1]。同社の自動車ブランドである「ジャガー」の名前で参戦している。
現在は、タタ・コンサルタンシー・サービシズ(TCS)をタイトルスポンサーに、ジャガー・TCS・レーシングとしてフォーミュラEに参戦している[1]。以前は2000年から2004年までF1で活動したF1コンストラクターだった。また古くはスポーツカーレースに参戦。特に1980年代後半から1990年代前半にかけてスポーツカー世界選手権や、IMSA GT選手権でジャガー・XJRシリーズは成功を収めた。
エントリー名 | ジャガー・レーシング F1チーム |
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チーム国籍 | イギリス |
チーム本拠地 |
イングランド バッキンガムシャー州ミルトン・キーンズ |
主なチーム関係者 |
|
主なドライバー | |
以前のチーム名称 | スチュワート・グランプリ |
撤退後 | レッドブル・レーシング |
F1世界選手権におけるチーム履歴 | |
参戦年度 | 2000年 - 2004年 |
出走回数 | 85 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 49 |
表彰台(3位以内)回数 | 2 |
F1デビュー戦 | 2000年オーストラリアGP |
最後のレース | 2004年ブラジルGP |
フォード・ワークスのジャガーレーシング
[編集]フォード・パフォーマンスとは、フォード・レーシングの謂いだという。それに「プレミア」が冠される。
プレミア・パフォーマンス・ディビジョン (PPD)とは、3社で構成されるフォードのF1部門をひとまとめにした総称で、フォード・パフォーマンスの最上位という位置づけ。
スチュワート・グランプリ社の買収に先立って、フォードは事前にエンジンを製造する会社を、そして、1999年の第4四半期にはさらにあとひとつの会社を調達していた。
1999年6月[4]、米国の自動車メーカーフォードは、活動を支援してきたジャッキー・スチュワート率いるスチュワート・グランプリを買収し、同社傘下のジャガーブランドで2000年からF1参戦を開始した。そのマシンは往年のナショナルカラーのブリティッシュ・レーシング・グリーンを纏い、「ビッグキャット」と呼ばれたジャガーのデザインが描かれた。
レース諸戦
[編集]2000年
[編集]ドライバーは前年ランキング4位、フェラーリでドライバーズランキング2位に輝いたエディ・アーバインがエース待遇で加入し、昨年のヨーロッパグランプリでフォードにワークス勝利をもたらしたジョニー・ハーバートとのイギリス人コンビとなった。アーバイン加入やフォードの完全ワークス体制で開幕前は注目を集めたが、前年度の好成績が嘘のように低迷。ポイントはアーバインが稼いだ4ポイントのみ。ハーバートはノーポイントに終わった。アーバインは途中オーストリアGPを欠場し、テストドライバーのルチアーノ・ブルティが出走する。ランキングは9位。
2001年
[編集]アーバインは残留、前年限りで引退したハーバートに代わりブルティがレギュラーに昇格した。しかし、ブルティがスペインGPからプロストに移籍。代わりにプロストでテストドライバーを務めていたペドロ・デ・ラ・ロサを起用した。アーバインがモナコGPで表彰台に上がったが他には特に目立った活躍はできず、ランキングは8位に終わった。
2002年
[編集]アーバインとデ・ラ・ロサのコンビを継続。アーバインはイタリアGPで表彰台に上がるなどし、8ポイントを獲得。デ・ラ・ロサはノーポイントに終わった。ランキングは7位。
2003年
[編集]ドライバーを一新し、前年ミナルディで好走したマーク・ウェバーをエースに迎え入れる。セカンドシートは新人のアントニオ・ピッツォニア。ウェバーは特に予選で高パフォーマンスを見せ、コンスタントに入賞する。ピッツォニアは苦戦を続け、遂にドイツGP前に解雇。ミナルディよりジャスティン・ウィルソンを迎え入れる。身長185cm(ウェバー)と192cm(ウィルソン)という大柄コンビとなった。ウェバーは17ポイントを獲得しドライバーズランキング10位、ピッツォニアはノーポイント、ウィルソンはアメリカGPで1ポイントを獲得した。ランキングは変わらず7位。
2004年
[編集]ウェバーは残留、もう1つのシートは新人のクリスチャン・クリエン。マレーシアGPではウェバーがフロントローを獲得。クリエンも序盤は新人らしくアグレッシブな走りで好走したものの、両者ポイントにはなかなか届かず。それでもウェバーは7ポイント、クリエンは3ポイントを獲得しランキング7位はキープした。この年を最後にジャガーとしての活動に幕を降ろす。
チーム体制の変遷
[編集]PAG / PPD / サブ
[編集]Ford Motors (Dearborn, Michigan) | ||||||||||||||||
Mercury |
Aston martin |
Lincoln |
Volvo |
Land Rover |
Daimler |
Jaguar Cars |
Jaguar Race Team |
Cosworth Racing | Pi Group | |||||||
1938-2011 | 1991-2007 | 1990'-2002 | 1999-2010 | 2000-2008 | 1990-2008 | 1990-2008 | 1999-2004 | 1998-2004 | 1999-2004 | 車体設計・製造を アウトソーシング 1998.08.06-2010.02.09 レイナード・ モータースポーツ社 [5] | ||||||
(1999-2011.08) Ford's Premier Automotive Group PAG (California / London) |
|
レースチームの社名変遷
[編集]
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関連企業・人物
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チーム役員・属性・在籍変遷
[編集]Cosworth Engineering |
Cosworth Racing |
Pi Group |
Stewart GP , Jaguar Racing(F1) and Red Bull Racing(F1) [6] | ||||||||||
Chairman | CEO | COO/代表 | Director | Team | |||||||||
Chairman | CEO, MD | 1987年設立 Pi Research Tony Purnell |
1995.11.01-1998.07.08 | J.Stewart |
P.Stewart |
P.Stewart オペレーションの 中心人物 [8] P.Stewart coo |
Rob Armstrong [9] |
1999.01非業務執行取締役 1999.06チーム買収[10] |
Stewart GP | ||||
① 1998.07.08 - Cosworth (Ford) Racing - 2004.11.30 |
[11] | 1998.07.08-1998.09.14 | |||||||||||
1998.09.14- Neil Ressler 事前の買い物係 |
1998.09.14-1999.01.01 | ② Neil Ressler | |||||||||||
1999.01.01-2000.01.04 | David Ring(MD) | ||||||||||||
1999.09-[12] Trevor Crisp (MD) |
③ 1999年 第4四半期の フォード による買収 Chairman Neil Ressler |
2000.01.04-2000.05.04 | Neil Ressler |
J.Stewart ceo |
[14] | (2000.01.04- Jaguar Racing -2004.11.16) | |||||||
2000.05.04-2000.09.30 | Neil Ressler | J.Browning | Richard Parry-Jones [15] |
W.Reitzle | |||||||||
2000.09.30-2000.12.01 | Bobby Rahal [16] CEO [17] |
J.Browning | ← [10][18] | J.Stewart | |||||||||
2001.02から Niki Lauda PPD CEO兼任 [19][20] -2002.12.18 |
2000.12.01-2001.08.24 |
|
Niki Lauda | Gerry Hughes (在籍) |
J.Browning |
Neil Ressler | |||||||
2001.08.24-2001.10.31 | Niki Lauda | (Mark Hanford) | |||||||||||
2001.10.31-2001.12.03 | (David Pitchforth, Jay O'Connell) 2002.03ビスター風洞建設工事完了 |
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2001.11-[22] Brendan Connor (MD) |
2001.12.03-2002.03.00 | Guenther Steiner (MD) | |||||||||||
2002-2003 Tim Routsis Pi Group Ltd (MD) |
2002.03.00-2002.05.04 | 2002.03からR3C改良プロジェクト David Pitchforth | |||||||||||
2002.05.04-2002.11.26 | Richard Parry-Jones Performance [17]→ |
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2002.11.26-2003.03.00 | Tony Purnell |
David Pitchforth (MD) (Reynard) |
|||||||||||
2003.03.00-2003.05.18 | 2003.03- Ian Pocock (在籍) | ||||||||||||
2003.05.19- Richard Parry-Jones |
2003.05.18-2003.10.20 | ||||||||||||
Tim Routsis (MD) |
2003-2013 Tim Routsis Cosworth Group Holdings Ltd. |
2003.10.20-2004.03.09 | |||||||||||
2004.03.09-2004.07.13 | |||||||||||||
2004.07.13-2004.08.27 | Ian Pocock Eng~ Director | ||||||||||||
2003-2013 Tim Routsis Cosworth Group Holdings Ltd. |
2004.08.27-2004.10.24 | 最終の5戦 → | Tony Purnell | David Pitchforth (Reynard) | Ian Pocock Eng~ Director | Bennett Charles Birgbauer 清算整理 |
(2004.08.27- -2004.11.16) | ||||||
2004.10.24-2004.11.12 | 最終戦を終えて | ||||||||||||
2004.11.12-2004.11.16 | Tony Purnell (Director) Team Principal |
David Pitchforth (Reynard) |
Ian Pocock Engineering Director |
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2004.11.16-2004.11.30 | (2004.11.16-) Red Bull Racing | ||||||||||||
Tony Purnell FKAC (Northampton) Ltd. |
2004.11.30-2004.12.14 | ||||||||||||
2004.12.14-2005.01.11 | D.Mateschitz | (H.Marko) | Dany Bahar (Director) |
H.Marko (Director) | |||||||||
Kevin Kalkhoven |
2005.01.11-2005.01.14 | ||||||||||||
FKAC (Northampton)Ltd. |
Kevin Kalkhoven |
2005.01.14-2005.09.00 | C.Horner | ||||||||||
2005.09.00-2007.03.23 | |||||||||||||
2007.03.23-2022.10.22 | C.Horner (Director) |
2000年
[編集]この時期、フォード副社長のニール・レスラー[23]は、コスワースエンジニアリング(1958-1998)の買収によって成立した、コスワースレーシング(1998-2004)の会長職を兼任していた。そのニール・レスラーがジャガー・レーシングのチーム代表に就任し、ボビー・レイホールをマネージングディレクターに据えた。
レースカーは、ゲイリー・アンダーソンがスチュワート・SF-4として用意したものがジャガー・R1として使用され、ゲイリー・アンダーソンは引き続き在籍し、年末にスティーブ・ニコルズと交代しR2の設計は引き継がれた。
2001年
[編集]ニール・レスラーは、2000年で辞任し、コスワースレーシング会長職はニキ・ラウダが引き継ぎ[24]、プレミア・オートモーティブ・グループ (Premier Automotive Group、略称:PAG) の責任者・ウォルフガング・ライツレの指揮下に、新たにプレミア・パフォーマンス・ディビジョン (Premier Performance Division、略称:PPD)が創設され、フォードの所有するF1関連の3つの部門の協調と指揮系統関係の明確化が図られ[19]、ラウダがPPDのCEOに就任し、ボビー・レイホールがチーム代表兼CEOに就任し、ギュンター・シュタイナーがマネージングディレクターに就任したが、8月、レイホールはラウダによって追放された[25]という。
レイホールがチームから去ったことにより、PPD CEOのラウダが自ら表に出てチーム代表、シュタイナーのマネージングディレクターは翌年のライツレの失脚と、それに続く体制崩壊まで継続する。
2002年
[編集]R3を用意したスティーブ・ニコルズはシーズン開幕1カ月前に解任される。
2002年半ば、フォードはジャガー・レーシングをカリフォルニアのライツレ率いるPAG指揮下からデトロイト本社の傘下に戻すことを決定。ライツレはあえなく解雇されてしまう。また、ラウダもこの時の人事によってシュタイナーと共に解雇されている。ちなみにこの時ラウダはフォード本社に問い合わせても全くコンタクトが取れず、自分の解雇をニュースで知ったという有様だった。この解雇が原因で、ラウダは相当なイギリス人嫌いになったという。また、この時のラウダの"置き土産"となったのが、アントニオ・ピッツォニア(ジャガー→ウィリアムズ第3ドライバー)である。
2003年 - 2004年
[編集]ライツレの後任には、フォード・レーシング (フォード・パフォーマンス)のリチャード・パリー・ジョーンズが就任する。
早速ジョーンズは1999年に買収しておいた、フォード傘下でレース用の電子システムなどを手がけるPIリサーチから、辣腕として知られていたトニー・パーネルをチーム代表に、デビッド・ピッチフォースをマネージングディレクターとして招聘したという触れ込みで改革に着手する。
本社の扱いになり、極端な予算削減を言い渡された新チーム首脳陣は、2003年2月のバルセロナ・テストの最中に120名ものスタッフを突如解雇し、テストを途中で切り上げさせ、チームを強引にイギリスへ戻している。この結果、チームは30%強もの人員を整理。さらに、パフォーマンス条項を理由にシーズン途中でピッツォニアを解雇。スポンサーから資金援助を受けているために、サラリーが発生しないジャスティン・ウィルソンをミナルディから獲得する。ピッツォニアは、もともとラウダが契約したということで目の敵にされていたという。
さらにこの頃フォード本社でもファイアストンとの問題が発生する。99年から40件以上、警察に記録されていたフォードのSUV、エクスプローラーのタイヤバースト事件において、エクスプローラーにはミシュラン製のタイヤも供給されていたにもかかわらず、当時フォード本社のCEOであったジャック・ナッサーはファイアストンの技術的欠陥だと主張したことに対し、ファイアストンがフォードを提訴。この訴訟はファイアストンの圧勝で終わり、フォードは多額の賠償金を支払う羽目になる。当然、この訴訟の引き金となる発言をしたナッサーは解雇された。後任のCEOには、フォード家出身のウィリアム・フォードが就任する。
実はフォード家自体は多額の資金が必要なF1活動に反対しており、ナッサーが15年に渡りフォード家の反対を押し切ってF1活動を続けてきたものであった。そのナッサー失脚がフォード撤退の決定的な要因となる。パーネルが採用したテクニカルディレクターのマーク・ギラン博士は、限られた予算の中でマシンを作ったものの、デトロイト本社の首脳の気持ちを変えることはできなかった。結局2004年9月17日、フォードのモータースポーツ部門のプレミア・オートモーティブ・グループの代表であったジョーンズがジャガー撤退を発表。後にジャガー・レーシング本体はレッドブルに売却され、レッドブル・レーシングとなる。共にレースエンジン製作の老舗コスワース・エンジニアリングとレース用電子システムなどを製作するPIリサーチも売却された。最後までビッグ・キャット(ジャガーの愛称)とブルーオーバル(フォードの愛称)は、ワークスとしての勝利を挙げることはできないまま、F1を去った。
ダイヤモンド紛失事件
[編集]2004年のモナコGPでは、ワーナー・ブラザースのスポンサーにより映画『オーシャンズ12』カラーのマシンを走らせた。PRの目玉として、フロントノーズにイスラエルのダイヤモンドメーカーシュタインメッツ社の時価25万ドルの同社製“ピンクダイヤモンド”(en)を埋め込んで出走したが、クリスチャン・クリエンの駆るマシンが1周目のロウズヘアピンでクラッシュ。壊れたフロントノーズはレース中コース脇に撤去されていたが、後でチームが回収するとダイヤが無くなっていた。
戦績表 + オペレーション
[編集]
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ギャラリー
[編集]F1 前期型(2000年 - 2002年)
F1 後期型(2003年 - 2004年)
ジャガー・レーシング(F1) テンプレート
[編集]フォーミュラE
[編集]国籍 | イギリス |
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本拠地 |
イングランド オックスフォードシャー州グローブ |
チーム代表 |
ガード・マウザー(チェアマン) ジェームズ・バークレイ(チームディレクター) |
関係者 |
クレイグ・ウィルソン(レースディレクター) ニック・ロジャース(CEO) |
活動期間 | 2016年 - |
カテゴリ | フォーミュラE |
チームズ タイトル | 0 |
ドライバーズ タイトル | 0 |
公式サイト | jaguar-racing |
備考 | 優勝回数 4(2022年2月時点) |
2023年-24年のフォーミュラE | |
エントリー名 | ジャガー・TCS・レーシング |
レーサー |
9. ミッチ・エバンス 37. ニック・キャシディ |
マシン | ジャガー・I-Type 6 |
タイヤ | ハンコック |
ジャガーはF1撤退後フォードの手を離れ、インドのタタ・モーターズ傘下のジャガーランドローバーのブランドとなった。その後フォーミュラEに同名の「ジャガー・レーシング」として参戦している。独自のパワートレインを開発している。
レース諸戦
[編集]2016年-17年シーズンより参戦開始。ウィリアムズF1からの支援、さらに日本企業パナソニックをタイトルスポンサーに迎え、「パナソニック・ジャガー・レーシング(Panasonic Jaguar Racing)」のチーム名で登録。ドライバーはミッチ・エバンスとアダム・キャロル、リザーブドライバーにはホーピン・タンを起用[26]。マシン名は「Jaguar I-Type 1」。戦績は、第4戦メキシコE-Prixで初ポイントを獲得。年間の総合順位では最下位に終わった。
キャロルに代わり元F1ドライバー ネルソン・ピケJr.を起用[27]。マシンは「Jaguar I-Type 2」。戦績は、開幕第2戦の香港E-Prixでエバンスが3位入賞を果たし、初の表彰台を獲得。最下位だった昨シーズンから躍進し、年間総合で6位。両ドライバーも年間ランキング10位以内に入った。
昨シーズンのドライバーラインナップを継続。マシンは第2世代シャシー“Gen2”を採用した「Jaguar I-Type 3」[28]。ピケJrが、第6戦の三亜E-Prixを最後に降板。次戦からの新ドライバーにアレックス・リンを起用した第7戦ローマE-Prixにて、エバンスによるチーム初優勝を飾った[29]。
WECで活躍しているジェームス・カラドを起用し、リンはリザーブドライバーとして残留する。マシンは「Jaguar I-Type 4」。エバンスが第4戦のメキシコE-Prixにてキャリア2勝目を飾るが、後半戦は不振に終わってしまう。一方、カラドはベルリンE-Prix4レース目でWECに途中参戦するために降板し、トム・ブロンクビストが残りのレースに参戦する。年間総合は前シーズンと同じ7位。
ヴァージンに在籍していたサム・バードを起用[30]。第2戦ディルイーヤE-Prixのレース2で移籍初の優勝を飾る[31]。シーズン成績は、これまでの最高位となる2位を記録した。
新たにタタ・コンサルタンシー・サービシズ(TCS)をタイトルスポンサーに迎え、ジャガー・TCS・レーシングにチーム名を変更した[1]。
戦績表
[編集]年 | マシン | タイヤ | No. | ドライバー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 得点 | ランク |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2016–17 | Jaguar I-Type 1 | M | HKG | MAR | BNA | MEX | MON | PAR | BER | NYC | MTL | 27 | 10位 | |||||||||
20 | ミッチ・エバンス | Ret | 17 | 13 | 4 | 10 | 9 | Ret | 17 | Ret | Ret | 7 | 12 | |||||||||
47 | アダム・キャロル | 12 | 14 | 17 | 8 | 14 | 15 | 14 | 16 | 10 | 11 | 16 | 14 | |||||||||
2017–18 | Jaguar I-Type 2 | M | HKG | MAR | STI | MEX | PDE | RME | PAR | BER | ZUR | NYC | 119 | 6位 | ||||||||
3 | ネルソン・ピケJr. | 4 | 12 | 4 | 6 | 4 | Ret | Ret | Ret | 12 | Ret | Ret | 7 | |||||||||
20 | ミッチ・エバンス | 12 | 3 | 11 | 7 | 6 | 4 | 9 | 15 | 6 | 7 | Ret | 6 | |||||||||
2018–19 | Jaguar I-Type 3 | M | ADR | MAR | STI | MEX | HKG | SNY | RME | PAR | MON | BER | BRN | NYC | 81 | 7位 | ||||||
3 | ネルソン・ピケJr. | 10 | 14 | 11 | Ret | Ret | Ret | |||||||||||||||
アレックス・リン | 12 | Ret | 8 | Ret | 7 | Ret | 16 | |||||||||||||||
20 | ミッチ・エバンス | 4 | 9 | 6 | 7 | 7 | 9 | 1 | 16 | 6 | 12 | 2 | 2 | 17 | ||||||||
2019–20 | Jaguar I-Type 4 | M | ADR | STI | MEX | MAR | BER | BER | BER | 81 | 7位 | |||||||||||
20 | ミッチ・エバンス | 10 | 18 | 3G | 1G | 6 | 14 | 12 | 9 | 7 | 7 | 11 | ||||||||||
51 | ジェームス・カラド | 16 | 7 | 8 | DSQ | 16 | 16 | 20 | Ret | 17 | ||||||||||||
トム・ブロンクビスト | 12 | 17 | ||||||||||||||||||||
2020–21 | Jaguar I-Type 5 | M | DIR | RME | VLC | MON | PUE | NYC | LON | BER | BER | 177 | 2位 | |||||||||
20 | ミッチ・エバンス | 3 | Ret | 3 | 6 | Ret | 15 | 3 | 8 | 9 | Ret | 13 | 14 | 3 | 3 | Ret | ||||||
10 | サム・バード | Ret | 1 | 2 | Ret | DSQ | 14 | 7 | Ret | 12 | 9 | 1G | Ret | Ret | Ret | 7 | ||||||
2021–22 | Jaguar I-Type 5 | M | DIR | MEX | RME | MON | BER | JAK | MAR | NYC | LON | SEO | 231 | 4位 | ||||||||
9 | ミッチ・エバンス | 10 | 21 | 19 | 1 | 1 | 2 | 5 | 10 | 1 | 3 | 11 | 3 | 5 | Ret | 1 | 7 | |||||
10 | サム・バード | 4 | 15 | 15 | 5 | Ret | Ret | 7 | 11 | 10 | 9 | 7 | 5 | Ret | 8 | |||||||
ノーマン・ナト | 13 | 14 | ||||||||||||||||||||
2022–23 | Jaguar I-Type 6 | H | MEX | DIR | HYD | CAP | SAP | BER | MON | JAK | POR | RME | LON | 292 | 2位 | |||||||
9 | ミッチ・エバンス | 8 | 10 | 7 | Ret | 11 | 1 | 1 | 4 | 2 | Ret | 3 | 4 | 1 | Ret | 1 | 2 | |||||
10 | サム・バード | Ret | 3 | 4 | Ret | WD | 3 | 2 | 19 | 16 | 20† | DNS | 17 | Ret | 3 | 4 | 7 | |||||
2023–24 | MEX | DIR | SAP | TOK | MIS | MON | BER | SHA | POR | LON | 368 | 1位 | ||||||||||
9 | ミッチ・エバンス | 5 | 5 | 10 | 2 | 15 | 5 | NC | 1 | 4 | 6 | 1 | 5 | 8 | 3 | 2 | 3 | |||||
37 | ニック・キャシディ | 3 | 3 | 1 | Ret | 5 | Ret | 3 | 2 | 1 | 2 | 3 | 4 | 19 | 13 | 7 | Ret |
ギャラリー
[編集]フォーミュラE(2016年 - )
-
I-Type 1
-
I-Type 2
-
I-Type 3
ジャガー・TCS・レーシング テンプレート
[編集]アンドレッティ・フォーミュラE | エンヴィジョン・レーシング | ジャガー・TCS・レーシング | タグ・ホイヤー・ポルシェ | DS・ペンスキー | マセラティ・MSG・レーシング | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
27 | ジェイク・デニス | 16 | セバスチャン・ブエミ | 9 | ミッチ・エバンス | 1 | パスカル・ウェーレイン | 25 | ジャン=エリック・ベルニュ | 2 | ストフェル・バンドーン |
51 | ニコ・ミュラー | 4 | ロビン・フラインス | 37 | ニック・キャシディ | 13 | アントニオ・フェリックス・ダ・コスタ | 7 | マクシミリアン・ギュンター | 5 | ジェイク・ヒューズ |
ニッサン | ネオム・マクラーレン | キロ・レース・Co | マヒンドラ・レーシング | ローラ・ヤマハ・アプト | |||||||
23 | オリバー・ローランド | 8 | サム・バード | 33 | ダニエル・ティクトゥム | 48 | エドアルド・モルタラ | 11 | ルーカス・ディ・グラッシ | ||
17 | ノーマン・ナト | 5 | テイラー・バーナード | 3 | デビッド・ベックマン | 21 | ニック・デ・フリース | 22 | ゼイン・マロニー |
スポーツカーレース
[編集]スポーツカーレースにおいてジャガー・XJRシリーズは、提携したトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)が製作し、1984年から1993年にかけて、スポーツカー世界選手権とIMSA GT選手権に出場したスポーツプロトタイプカーだった。これらは大きな成功を収めたが、そのハイライトは次のとおり。
- XJR-8、1987年の世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)でドライバー、チームタイトル。
- XJR-9、1988年のル・マン24時間、デイトナ24時間総合優勝、WSPCでドライバー、チームタイトル。
- XJR-12、1990年のル・マン24時間、デイトナ24時間総合優勝。
- XJR-14、1991年のスポーツカー世界選手権、ドライバー、チームタイトル。
ギャラリー
[編集]-
E-type Limited edition
(1963-1964市販車) -
E-type (Lightweight edition)
(1964レース車) -
XJ-13 (1965年試作のみ)
-
XJR-7 (1985年-88年、IMSA)
-
XJR-8 (1987年、グループC)
-
XJR-9 (1988年、グループC、1988年-1989年、IMSA)
-
XJR-10 (1989年-91年、IMSA)
-
XJR-11 (1989年-90年 グループC)
-
XJR12 (1990年、グループC、1990年-1993年、IMSA)
-
XJR14 (1991年、グループC、1992年、IMSA)
-
XJR16 (1991年-92年、IMSA)
ジャガー・レーシング (スポーツカー) テンプレート
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c “タタ・コンサルタンシー・サービシズがタイトルパートナーとなり、ジャガーTCSレーシングが誕生 フォーミュラE世界選手権シーズン8開幕に先立ち発表”. Jaguar Land Rover Japan Limited. 2021年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月5日閲覧。
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